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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2020.09.26

「私には感情がない」と言う人がいるのはなぜ?

今までも繰り返し手を変え品を変えて同じようなことを書き続けていますが、今回はあるアスペルガーの人が、「自分には感情がない」と言われていたというのを聞いたことがあるのですが、なぜそういうことが起こるのか、についてです。これも同じ視点から理解可能だろうと思っています。

発達障がい児がつらい思いをする大きなことは、自分の特性からくる自然な感覚や思いを認めてもらえないことだろうと思います。

どうして認めてもらえないかと言うと、かんたんなことと思います。それは定型の側は自分の特性にとっての自然な感覚や思いをベースに発達障がい児を理解するからで、その自分の「常識」が発達障がい児にも当然共有されているはずだという思い込みを持っているからです。

これは立場を換えて反対側から見ても同じで、発達障がい児も自分の感覚や思いは当然定型にも共有されているはずだと、特に考えることもなく思い込んでいますから、それが受け入れられないことがなぜなのかわからない。なぜ自分がそこで定型発達者の要求にうまく応えられないかもわからない。

その意味ではお互いに自分の感覚で相手を理解しようとしてうまくいかないわけで、お互い様とも言えます。

ただ定型発達者の方がこの世の中では圧倒的に多いので、社会のいろいろな仕組みは定型を基準に作られていて、定型的な感覚や思いは「当然のこと」と社会的には考えられ発達障がい者の感覚や思いがそれとズレると「おかしなこと」として認められず、頭から無視されたり、否定されたり、強制的に矯正されたりしやすい立場に置かれる分、つらい思いをしやすいという、社会的な仕組みがあります。(※)

ですから、そういう仕組みからくる不要な摩擦、「悲劇」を緩和するには、まずはお互いの間の「違い」を見つめること、自分の「常識」を相手に問答無用に押し付けないことが必要になります。

そのためには「当事者が自分の言葉を持ちにくい理由」シリーズ(1まずは心の理論から、2感覚と言葉のずれ3ことばは借り物ということ、4論理的な言葉は自分の言葉に?)でも考えてみましたが、まずお互いの言葉に気を付けることも大事になります。発達障がい児は定型的な感覚を表しやすい言葉の使い方の中で育ち、それではうまく自分の気持ちを理解したり相手に伝えたりしにくいことも起こりやすいからです。

ですから発達障がい児・者は自分のすなおな気持ちを表せる言葉をまずは獲得していく必要があります。そのために有効な方法の一つが、似たような感覚を持つ人と語り合い、自分たちの感覚にあった言葉を探し、自分自身の自然な感覚を理解しなおしていける場を持つことでしょう。(※※)そうやって人に自分を理解してもらうためにも、そのベースに自分自身を説明できる言葉を身に着けることが大事だからです。

また定型発達者の側も、自分にとって自然な常識と、発達障がい者にとって自然な感覚や思いのズレを理解する努力が必要になります。自分にはない感覚を理解することはむつかしいことです。たとえば感覚過敏と言われる感じ方の違いを、感覚過敏がない人が理解しようと思っても、「そういう人がいるらしい」ということまではわかっても、実感としてピンとくるのはなかなか困難です。そういう感じ方のズレに自然に配慮できるようになるのはそう簡単ではありません。そのあたり、いろいろ手探りで工夫していく必要があります。

人間は誰でも自分の視点からものごとを理解するようにできているので、違いには気づきにくく、違いは人とのコミュニケーションの中で少しずつ気づいていく必要があります(※※※)。そんなふうにまずは「違い」を発見することがとても大事になります。

 

ひとつたとえ話をしてみます。モンシロチョウを見たことのある方は多いと思いますが、オスとメスの見分け方を知っている方は少ないと思いますし、肉眼で見ても、模様の大きさに少し違いがあるようですが、それを仮に知っていてもぱっと見でわかるようになるにはかなりの経験が必要でしょう。

ところがモンシロチョウ同士はお互いに簡単に見分けるようです。お互いに異性を見つけるのは種の保存には死活問題ですから当然ですね。ではどうやってそうするかというと、どうも紫外線という、人の目にはわからない波長の光で見分けているようで、紫外線を当ててみると、羽の光り方にはっきりした違いがみられるのです。(たとえば徳島県立博物館のこのページでその違いを見ることができます)

つまり、感覚が違うと、お互いに見えている世界が変わるわけです。だからある人には当然別のものと思えるものが、他の人には同じに見える。違いが見える人が違いが見えない人にいくら説明しても相手は全く理解してくれません。モンシロチョウが仮に話が出来たとしたら、人間がなんでオスとメスを見分けられないのか不思議でしょうがないでしょう。

前にもご紹介したかと思いますが、アスペルガーの女の子が光がまぶしくて目を細めながら(上目遣いに)人と話をしていたら、相手が自分を小馬鹿にした表情として感じたようで、その子につらく当たっていたという話も、その女の子にとってはまぶしく感じるのは自然なことで、だれもが同じだろうと思っていた(というかそんなことすら意識もしなかった)でしょうし、相手の子もまさかそれが単に「まぶしい」ということだとは気づけなかった。自分は全くまぶしくないからです。

さてここで冒頭の、あるアスペルガーの人が、「自分には感情がない」と言われていたという話に戻ります。なぜでしょうか。おそらくこういうことと想像できます。

まず、生理学的に考えると、感情というのは脳でいえば大脳が特に重要な役割を果たしていると考えられています。また感情は環境に適応した行動を素早くとれるように進化したとも考えられていて、特に人間ではコミュニケーションでも大事な役割を持っています。その仕組みや役割から考えて、アスペルガーのその人が生理学的な意味での感情がなかったとは考えにくいことです。

次に心理学的に考えれば、感情は自分の生理的な興奮などを自覚し、「理解したもの」と考えられます。たとえばある実験ではアドレナリンを注射して動悸や冷や汗などの興奮状態を作ったとき、その興奮の理由を教えられていなかった人は環境のせいにして不快感を訴え、あらかじめアドレナリンの効果としてそういうことがあると知らされていた人はそう考えず、不快感も少なかったという話があります。

社会心理学の有名な話で、デートをするとき、ジェットコースターなど興奮する状態を一緒に経験すると、相手がより魅力的に感じられるという話があります。これも危険に対する体の興奮を、「この人が素敵だから私は興奮している」と解釈しやすいからだと説明されています。

つまり心理学的に言えば、感情は単なる生理的な興奮などの仕組みではなく、それをどういう意味があるものかを判断する心理学的な認知的仕組み、つまり「状況についての意味の理解」とセットになって体験されるのだと考えられます。

一応そのことを前提とすると、「私には感情がない」という不思議なことを語られる人がなぜそう思われたのかを理解することができます。

 

つまり、その人も当然生理学的には感情と言えるような状態があるはずです。そしてその感情を周りの人に言葉で訴えたりもしたはずです。ところが感じ方やその理解の仕方自体に周りの人とのズレがあるため、自分のその気持ちを周りの人に理解してもらえないことが度重なる。そして周りの人(定型)が「これっておもしろいよね」とか「これ頭にくるよね」などということがなぜそうなのか今度は理解できない。場合によっては定型から嫌がられる言動を、まったく悪意なく自分の素朴な感覚で行うために、「あんたには人の気持ちを思いやることができないの?あなたには人の感情がないの?」などと激しく攻撃されたりもしてきたかもしれません。

そうすると、自分が感情かなと思って語ることは人から否定され、自分が理解できない感情こそが感情だと言われるという体験が積み重なるのですから、それを解釈するためには「自分には感情がない」と考えたとしても不思議はないことになります。実際には「自分には定型的な感情が理解できないことが多い」というだけなんですけどね。

人間の言葉もそんなふうに自分たちの感覚の見え方に応じて作られていきますから、見え方がズレてしまうと、言葉が相手にうまく伝わらなくなります。定型がはっきり区別することを発達障がい者が区別しにくかったり、その逆ということがしばしば起こり、その違いを言葉でうまく伝えることがむつかしいのです。(そもそもそういう感覚の違いが背景にあることすら気づきにくいことです)

 

そういうわけで、まずお互いに違いに敏感になることが大事だと思っています。そのうえで、次に「違うけど同じ」ということを発見することがその次のステップとして重要になるでしょう。その点については回を改めて考えてみます。

 

※ こういう問題は定型発達者と発達障がい者の間だけではなく、人間社会では多数派(マジョリティー)と少数派(マイノリティー)、権力のある人と権力に従う立場に置かれた人の間ではどこにでも普通に起こることです。私の研究分野の一つである文化の問題でいえば、その社会の中で多数派を占める文化と文化的少数派の間でも常にそういう問題からさまざまな差別やトラブルが起こります。「障がい者」と「健常者」についても基本的に「障がい者」が少数派の立場に置かれるので、両者の間に生まれる葛藤は、同じような社会的仕組みを生み出しやすいわけです。その意味で障がいの問題は基本的に社会的な問題である、という性質を決して無視できません。その視点を外してしまうと、結局「間違っているのは少数派で、少数派は多数派に従うのが当然だ」という安易な話になってしまいやすいわけで、それでは共生社会など実現しようもないことになります。

※※ こういう作業をずっと模索されてきたのが綾屋紗月さんや熊谷晋一郎さんたちが進めてきた当事者研究の努力だということになるでしょう。そのあたりはお二人の共著「つながりの作法」などでも理論的に整理を試みられています。私は共同研究者の皆さんと異文化間理解などを含む「ディスコミュニケーション問題」についての理論化を試みてきましたが(「ディスコミュニケーションの心理学:ズレを生きる私たち」「文化とは何か、どこにあるのか:対立と共生をめぐる心理学」など)、相互に通じ合うところがとても多くて、問題の普遍性を感じさせられています。

※※※ ピアジェの知能の心理学はそのことを強調した議論ですが、自分とは違う他者の視点に気づく(脱中心化)、という力がついてくる過程こそが発達の最も大事な過程であるとも言えます。

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