はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2020.09.30

R君の積み木(11)言葉を準備する自他関係の成長

カナータイプの自閉症の成長過程を見てきた「R君の積み木」シリーズは昨年11月18日に10回目を書いてから気づいてみると10か月余りがたっていました。4歳1ヶ月になったR君を担当している石黒先生にその後の様子を事例研究会で話していただいたのですが、その後の着実な成長ぶりにちょっと心が熱くなりました。

「R君の積み木」シリーズは以下のように書き進めてきました。

R君の積み木(1) (2)崩すことの意味 (3)一つから二つへ、そしてその組み合わせへ (4)大人の関り (5)「人への関心」とその表現 (7)新たな展開を生む力 (8)意味の共有の話 (9)大人の働きかけを組み込む (10) 共有の仕方の特徴 (番外編):【可愛い頑張りやさんR君について】

ここで書いてきたことの背景に私が持っている視点はある意味シンプルなものです。つまりR君が「どのように意味をほかの人と共有するようになるのか」、そして「どのようにお互いの意図を調整しあいながら彼なりのコミュニケーションの力を作り上げていくのか」、ということです。

自閉症というのは、コミュニケーションの障がいを核にするものと一般には考えられています。実際知的な遅れを伴うカナータイプの子の場合にはその子のやっていることの意味が分かりにくく、言葉もなかなか出てこず、こちらからの働きかけが受け入れてもらえないことが多く、「コミュニケーションが成り立たない」という印象を持ちやすいですし、言葉など知的な発達は平均的かそれ以上のアスペルガータイプの子の場合も、同じ言葉を使っていても意図の読み取りにずれが起こったり、何でそんなことにこだわるのかが理解できなかったりして、やはり「コミュニケーションがとても難しい」という印象をもたらしやすいことは間違いありません。

その結果、定型中心の社会にうまく入っていけず、入っても大変な苦労が積み重なり、重篤な二次障がいが生じたり、周囲との関係が厳しいものになってしまったりすることになります。

 

まあ、一面ではそういう見方が成り立つことは別に否定しないのですが、ここではそういう見方だけでは見過ごされてしまいやすい問題を考えていきたいわけです。ではそれは何かというと、これも簡単な話で、「コミュニケーションの障がい」ではなく、「自閉的なコミュニケーションスタイルの発達」を理解しようというわけですね。自閉の子が「コミュニケーションがうまく育たない」とネガティブに見るのではなく、「自閉的な特性に応じたコミュニケーションを発達させていく」とポジティヴにとらえるわけです。

定型と自閉はお互いの特性に違いがあるので、定型的なコミュニケーションスタイルが自閉的な方に苦手なのは当たり前です。立場を換えて自閉的な方たちに心地よいコミュニケーションの在り方を定型が取れるかと言えばそれもなかなかむつかしいのと同じです。定型的な視点から見れば自閉的なコミュニケーションは「失敗したコミュニケーション」に見えますが、自閉的なスタイルから見れば、定型的なコミュニケーションの方が「へんなこだわりを持ったわけのわからないコミュニケーション」になります。それは特性の違いに応じた異なるコミュニケーションスタイルがあるために生じることなわけで、それぞれに特有の発達のコースがあるはずなのです。

 

ただし違うとは言っても、そのどちらも「コミュニケーション」という同じ言葉で表せるわけですから、当然共通点もあります。それは何かといえば、自分がほかの人とかかわりながら生きていくために、「お互いに意味を共有し、意図を伝えあい、関係を調整する」という仕組みがそこにあることです。ただ「どうやってそれを行うのか」ということに特性に応じた違いがある。そこがズレるから、特性の違いによってコミュニケーションが成り立ちにくくなるわけです。

 

というわけで、R君についてもそういう視点からその成長を見ることができます。そして定型的なコミュニケーションの感覚からすればなにか違うものを感じさせるスタイルでありながら、でも確実に彼なりのコミュニケーションの力がじっくりと順序だてて育っていることを見いだせるのです。

すこし以前の事を振り返っておきましょう。初めてR君の様子を直接教室で実際に見せていただいたときは彼が何をしているのか、お母さんもその意味がほとんどつかめないような様子でした。定型的な感覚からすれば「いつも同じような意味のないことを繰り返している」と見えるのですね。それで私が彼のやっていることを「実況中継」のようにお母さんに話しました。そして「何の意味もなく積み木を一列につなげ」「よくわからない声を出し」「寝っ転がってそれを眺めたりしている」状態を見ている中で、私がそれがR君が列車に見立てている(あるいは列車の状態を再現しようとしている)ものと感じられたため、その解釈についてもお話ししました。つまり「何の意味もない」と見えていたものに、彼なりに「意味がある」可能性をお母さんと共有したわけです。

なんでお母さんがその意味を読み取りにくかったのか、と言えば、定型的な子の平均的な発達の過程の中では、子どもが積み木を自動車や列車に見立てるときは、ひとつの積み木を前後に動かし、「ガタンガタン」とか「ブーブー」とか、「その音」と他者にもわかりやすい「効果音」(擬音)を発し、またそばに人が寄ってくればその人を意識して積み木で遊びながら時々目を見たり、相手に積み木で働きかけたり、そういう他者のとのやりとりの中で見立て遊びが展開するのが一般的です。ところがR君の場合は積み木を並べて眺める、といった動きの少ない(ある意味では安定した)形作りが中心で、「効果音」も人のまねをしたものより自分自身の独自の感覚で再現したもので人にはその意味が伝わりにくく、他の人を意識したり巻き込んだりせずに自分一人でその世界に入り込んでいるように感じられます。

つまり定型的なやりかたは、「人と共有する」ことをベースにした見立ての形(意味の表現※)が展開しているのに対して、R君の場合は「人をあまり意識しない」状態で「自分自身に納得のいく形」での見立て(意味の再現※)をしているのだと考えられます。だからお母さんがそれを見ていてももともと意味が読み取りにくいわけです。ですから「意味がないこと」に見え、彼独自の意味が見えにくい。

そこで私が果たした役割は、言ってみれば「通訳」のようなことです。私の方が自閉的な子についての経験は多少あるので、一般の定型の人に比べれば見えにくいR君の「見立て=意味」に気づきやすかったので、それを通訳者のようにお母さんに伝えたことになります。そうすると、お母さんは「ああ、そういうことなのか」とその意味を理解しやすくなります。

この経験を経て、お母さんはそれまで意味がないように思えていたR君のいろいろな行動について、改めて意味を読み取ろうとするような姿勢になられたようです。そして石黒先生たちスタッフとR君の見立てを推定する、というようなやりとりも繰り返されたのですね。

コミュニケーションはお互いに相手の行為や言葉の意味、そこに込められた意図を読み取りあうことで成立します。そしてこれは定型の子でも同じですが、自分のふるまいの意味の理解は、他者のふるまいによって気づかされるとか確かめられるという形で意味が形成されたり膨らまされたりしていきます。ただし自閉系の子の場合、自分の方から相手にそれを求めるような姿勢はあまり強くないので、その分定型の大人の側から子どもにより積極的に寄り添ってしっかり読み取っていくことで、意味の共有が進みやすくなるわけです。

ただしここで大事なことは「積極的に寄り添う」ということと、「積極的に何かをやらせる」ことは全く別の事だという点です。特にここは自閉的な子とのコミュニケーションを育てるときに重要だと思われます。大事なのはまずその子自身が作り出そうとしている意味をこちらが読み取ろうとすることで、次にその子の活動を大事にしその意味を支えたり、膨らませたりする形でかかわりを深めていくことです。

 

石黒先生たちがその後にまさにそのようなかかわり方をずっとされていきました。そしてそのようなかかわり方がR君の「他者を意識し、他者の働きかけを取り込んだ活動」を次々に展開させていくことになります。もう少し具体的に言うと、まずR君がやっている積み木の列車の横で家を作ってみると、それを崩してしまう、という「拒否」にも見えるようなことから始まって、そのうちに崩した後で自分で作ってみるというようなことが起こっています。そういう形で大人のやっていることを自分の中に取り込み始めているんですね。

そして(4)大人の関りの事例にとてもよく表れているように、やがて大人のかかわりを積極的に受け入れ、また大人の手助けを期待するような展開が生まれています。ここでもR君は相手の意思に働きかけて手助けをしてもらうようなかかわりがむつかしいので、クレーン現象のように、相手の意思にではなく、直接「身体」に働きかける(それを動かす)ような形から始まっていて、いかにもその点で自閉の子らしいのですが、明らかに相手のかかわりへの期待があります。そしてやがてそういう働きかけが「合図」のように使われ(箱を手招きする形で取ってくれることを「要求」するなど)、人とのかかわりあいの中に手招きのような行動による「合図」あるいは「記号」のような要素が入ってくるわけです。

そうやって大人とのコミュニケーションの基本的な力が育ち始ってきたところで、R君は今年幼稚園に入りました。

そこで少し興味深いことがあるのですが、幼稚園でお母さんと別れるときもそういうことがあったようですが、お母さんの姿が見えなくなると一生懸命探すような「後追い」的なふるまいも目立ったようです。以前は反応が薄かったようですが、お父さんが迎えに来るととても嬉しそうだったりもするようになっています。

つまり、身近な大事な人との感情的なつながりが強まっていることが感じられるのですが、定型の子の場合、このような情動的な変化は本格的に言葉の準備が始まり、あるいは生まれるころとおよそ重なっています。これは生物学的には合理的なことと考えられます。なぜなら子どもが言葉による親の制止を理解できたり、自分から言葉で相手に働きかけられるようになるということは、「離れた相手とやりとりができる」ことを意味しているのですが、ちょうどそのころ子どもは自分の足で活発に「親から離れる」といった移動が可能になるからです。

子どもが親から離れるわけですから、とうぜん危険が伴います。すぐ近くにいれば親はさっと抱き留めるなどの対応が可能ですが、離れていればそれができません。だから離れていても相手に働きかけてその行動をコントロールする力を持つ「言葉」が大事になる訳です。そしてその時期に子どもの側には「親がいないこと」には不安が伴い、親がいると安心という形で親を強く意識する力も育つと考えられます。

カナータイプの自閉のお子さんの場合は言葉の運動発達の方が先に進むのが一般的ですので、歩いて物理的に「親から離れる」力が身についても、定型の子のようにそれで強く不安になるようなことはまだなかったりもするわけですが、しかし言葉が出始める時期には後追いなどの親への情動的な結びつきの強まりが見られることがしばしばあるような印象を持ちます。R君についてもそういう理解をしておそらく間違いなさそうな展開をしているように思えます。

つまり、合図(記号的なもの)を使った意図の伝えあいの力が成長してくるという、言葉の基本的準備が整ってきた段階で、お母さんやお父さんとの情動的な結びつきが強く意識され、それを体でも表すようになってきたのでしょう。定型では「歩行という運動能力(移動能力)の成立」と「後追いなどの情動的なつながりの表現」と「言葉の成立」の3つが割合一体に進むところ、カナータイプの自閉の子の場合は「歩行」が先に進む傾向が強いという違いもありそうですが、情動的な発達と言葉の成立に関係が見られるとすればそれはとても興味深いことでもあります(※※)。

また今年に入ってからの変化ですが、相手の人についての意識もさらに複雑になっているようで、何かをやっていて大人に邪魔されたくない時、石黒先生が近寄ると背中を向けて体で遮り、先生が別方向にずれるとまたそちらの方で背中で遮ると言ったことも見られたようです。言ってみれば「背中で相手を感じて、その相手を自分の体で妨害して自分のやりたいことを守る」といった複雑な関係の理解が成立してきていることになります。

相手の反応を期待しながら「待つ」という、一種の自己コントロールが相手との関係で成り立つようにもなってきます。「相手の反応を期待して待つ」という力は、人のコミュニケーションの基本的な力の一つになります。

 

言葉はコミュニケーションと思考のツールです。コミュニケーションが成り立つには自分と相手の関係を意識し、相手に働きかけ、また相手の働きかけを受け止め、さらに自分自身をそれに合わせてコントロールする力が必要になります。そのようなコミュニケーションの力の展開に、言葉という記号が利用されるわけです。その基本的な仕組みはコミュニケーションが苦手と言われる自閉系の子でも全く変わりないということが、R君の発達を見ていてもはっきりと見て取ることができます。

確かに定型的なコミュニケーションは苦手で、定型からの働きかけはすんなりとは受け止められません。ただ彼らなりのやり方で、その特性に合ったコミュニケーションの形が一歩ずつ作られていく。R君も身振りなどを使った合図でのコミュニケーションが豊かになりつつある中で、やがて音声を使った言葉をそれに利用するようにもなるでしょう。その準備段階とも思えますが、発することのできる音の種類も少しずつ増え始めているようです。

事例研究会では石黒先生が最後に、この間のR君の成長を強く実感されながら、また1年後にその続きについてみなさんにお話が出来ればと言われていました。私も彼のこれからのさらなる成長が楽しみです。

 

※ ここで意味の「表現」と「再現」という言葉を使い分けてみました。「表現」は主として他者に向けられたもの、他者を強く意識した行為です。それに対して「再現」は主として自分に向けられたもの、自分自身で確かめるような行為です。「再現」も「自分自身への表現」としてとらえれば、どちらも「表現」という一つの言葉でまとめることは可能なのですが、ただ「主として誰に向けられているのか」という点のズレこそが、自閉的な表現と定型的な表現の質的な差の重要なポイントになると考えられますので、ここでは「より相手に強く向けられた表現」と「より自分に強く向けられた再現」という感じで両者を使い分けてみました。さらにいえばこのスタイルの差は同じ言葉という「記号」の仕組みを獲得し、使いながら、それが他者とのコミュニケーションの中での働き方にしばしば深刻なズレを生み出す理由を説明するものともなっていくと、私は考えています。そういう視点から理解することで、アスペルガー者と定型者の間のコミュニケーショントラブルの多くも説明が可能になるように思います。

※※ 思いかえせば学生時代にお世話になった発達心理学の中島誠先生は、この情動の発達と言語の出現の関係にとても注目されて、私たちにその話をされていました。考えてみれば、たとえば遠く離れた大事な人との間でも、メールや手紙、電話のやりとりで心がつながり、自分が支えられます。言葉というのは距離を隔てたもの通しの気持ちの支えあいのツールにもなる訳ですね。だから他者との関係にかかわる情動の発達と言語の間に深い関係があっても当然とも言えそうです。これらは今も重要な研究課題なのだろうと思います。

 

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