2020.12.07
オウム返しのコミュニケーション
学生のころ、農学部の農場にヤギの囲いがありました。
散歩していたらそのヤギが鳴き声を上げていたので、何の気なしにその音をまねした時です、ヤギが私の方に向かって喜んで(と見えた)突進してきたんです(攻撃かもしれませんが)。なんのことかはわかりませんでしたが、「何かが通じた(ヤギに誤解された)」んだなと面白く思いました。
家には老猫が二匹いて、お昼時に私が台所でご飯を作り始めると、やってきて盛んにニャーニャーがなります。こちらの方は「餌をよこせ」という意味なんだろうなと推測できるんですが、その声も全くおなじではなくて、いろんなバリエーションで鳴くんですが、そのニュアンスの違いまでは全然判りません。
ただ老猫で内臓が弱ってきていて通院もしているので、自由にえさを与えることができず、「ニャーニャー」と盛んに哀れげにアッピールされると、こちらもそれにこたえてえさをあげられないことにつらさが出てくるんです。それでそのつらさを逃がすように、私も「ニャーニャー」と猫の音をまねて「会話」するんですね。そうしているうちは少しこちらのつらい気持ちが収まるんです。
それでふと気づいたことがありました。カナータイプの自閉の子に見られる「オウム返し」についてです。カナータイプに限らずあの大天才のアインシュタインも言語発達がとても遅かった子どものころ、相手の言っていることをぶつぶつと繰り返す、ということが多かったようです。
オウム返しは相手の言ったことをそのまま単に繰り返すだけの言い方で、コミュニケーションとしてはとても奇妙に感じるものです。発達心理学的にはこれは自分と相手の視点をうまく切り替えることができないために起こることと説明することができます(浜田寿美男さんの講義を参照してください)。
このため、オウム返しをする子どもは「コミュニケーションが成り立たない」ということで理解されてしまうことにもなりやすいのが現状でしょう。まさに「障がい」です。
さて、この話を「当事者の視点」から考え直してみようというのが今回の話のミソです。
もう一度上の例を思い出してください。私がヤギの声をまねした時、私はその声が何の意味を持っているかわからないまま、ただ遊びのようにまねをしてみました。つまりオウム返しです。この場合、私のコミュニケーションへの意図はあまりはっきりしていません。ただ結果としてはその私のオウム返しの声がヤギに何かの意味を持ったらしく、そのヤギの強い反応を引き出しましたので、私は「よくわからないがヤギと会話ができた」と感じました。結果としてコミュニケーションが成り立ったと感じるようなできごとです。
猫の場合、私は猫の鳴き声の大雑把な意味を「餌を要求している」と言う風に理解していました。ただ細かい鳴き声の差まではわかりませんので、大雑把な理解で、そしてここでも鳴き声をまねするというオウム返しをやりました。この場合、私のコミュニケーションの意図はかなりはっきりしています。猫の訴えかけに対して、なにか「応えなければ」という思いがあって、猫に「話しかける」姿勢は明確だったのです。ただ、自分でもその声がどういう意味をもって猫に伝わるのかは全然わかっていません。本当は「いや、悪いね。ごはんあげられないんだよ」などと伝えたいんですが、それを猫語でどう伝えるかも全くわかりません(そもそも猫にそういう言葉があるとも思えませんし)
自閉の子のオウム返しをこの視点から考えてみます。そうすると、自閉の子は相手の視点を理解するやりかたに自閉的な特徴があって、定型のような形では視点の切り替えをしてやりとりすることがかなり困難です。相手の質問や要求に対してもそれが何を意味しているのかを理解するのがむつかしかったりします。ただ何かコミュニケーションを求められていることはだんだんわかってくる。
それで自閉の子も彼に理解できる限りでその「コミュニケーションをしようという相手の要求」に応じようとする。だけど相手の言うこともよくわからないし、ただ「コミュニケーションを返そうという気持ちになり、とりあえず記憶できた相手の言葉を繰り返してみる。つまりオウム返しです。
これは、私が猫に対してニャーニャーとオウム返しをしたのと同じですよね。私には明らかにコミュニケーションの気持ちはあった。だけど何をどう言っていいかわからないので猫の鳴き声をただまねするしかなかったわけです。
そうだとすると、自閉症児のオウム返しも、彼の当事者視点から見れば、彼なりの理解に基づく立派なコミュニケーションの一つだとみることができないでしょうか。
ちなみの本家のオウムのオウム返しは、そのようなコミュニケーションの意図を認めることができませんので、自閉症児のオウム返しをそれと同じように見ることはできないと考えています。
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