はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2020.12.10

マニュアルを超える

東京の古本屋街、神保町で唯一の子どもの本専門店でブックハウスカフェという書店+カフェがあります。私は今まで知らなかったのですが、HPを拝見するととてもおしゃれで、心なごみそうなお店で、本を読む子どもの写真を見て、ふと大学院生時代にパートで保父をしていたときの感覚がよみがえってきました。子どもに絵本を読み聞かせている時の楽しい時間も体が思い起こす感じです。

子どもの書店ですが、カフェがあって、夜はお酒も飲めるということで、いずれはぜひ行ってみたいという気持ちになります。

それで、この所長ブログをお読みいただいた大野真紀子さんと言う方から、感想のメールをいただきました。大野さんはブックハウスカフェとタイアップしながら「発達特性を持つお子さんと、絵本屋で出来ることをしよう」と考え、「ココロノホンダナ」という活動はじめられるとのことで、いろいろご紹介いただきました。

そこにこんなことが書かれていました。

「自閉スペクトラム」「発達障がい」という言葉の理解が広まる一方で、お子さんへの個々の関わりまでがマニュアル化してしまい、山本先生のブログのお話の中にあるような、手を強く握ってみたら握り返してくれたことをきっかっけに…や、オウム返しの本人の視点…のような本来コミュニケーションが生まれる大切さや可能性に、我々が気づきにくくなっているように感じています。

 

さっそくこの文を、「手を握る」するどい支援をされた大内雅登さんにお伝えしてみたのですが、すごく喜ばれていました。特に「お子さんへの個々の関わりまでがマニュアル化してしまい」というところにとても納得されたようです。

大内さんはご自身がアスペルガー当事者で、私から見るとその感覚を最大限に生かしながら自閉的な子の言葉にならない感覚を読み取って、その子に合ったコミュニケーションの形を作り上げていかれるように見えます。ご本人にとってはそれが普通の感覚なので、別に特別なことをされているという思いはないようなのですが、少なくともそのあたり鈍感な私から見ると、超能力のようにさえ見えることがあります。

その大内さんが世に広がってきている「「自閉スペクトラム」「発達障がい」という言葉の理解」に対して強い違和感を覚えられる理由が、まさにそれが自閉スペクトラム症についてのワンパターン化された理解(=無理解)になってしまっていて、本当に自分のことをそれで理解されたようには思えないという現実であるようです。同じ「障がい」と言われることについても、それを外側の目からパターン化して見たときと、その特性も持ちながら日々の現実を生きる一人一人の内側の目から見たときとでは大きなズレが起こるのです。

「障がい名」は基本的には障がい当事者の視点から名付けられたものではなく、定型発達者(定型発達当事者)の視点から、それに外れる特性として名付けられるものになります。ですから、どうしてもそこで言われることは障がい当事者の視点の「外側」からの理解になってしまうのですね。だから障がい当事者が自分自身を理解する言葉としては、一人の人として生きている自分の大事な部分をスルーされて外から語られてしまうという、疎遠な部分が出てこざるを得ない、ということになります。

もちろんこの「障がい名」というのは、その人の在り方の一部分を理解するうえでは大事な手掛かりになります。たとえば自閉症であれば、「わけのわからない子」ではなく、「他者の視点の理解の仕方に独特の特性をもっていてコミュニケーションに困難が生じやすい」(※)と理解することで、「コミュニケーションの仕方に工夫をすべきだ」という視点が得られ、そのためのいろいろな工夫をするための手掛かりになります。

自閉スペクトラム症の子どもや大人への支援の方法論として優れた実践を重ねているTEACCHでは、「構造化」という工夫がよく行われていますが(下川客員研究員による本場でのTEACCHプログラム体験レポートはこちら)、それも「コミュニケーションの中での言語的な相互理解よりも、視覚的に具体的に明示された方が理解されやすい」という、自閉系の人にしばしばみられる特性に合わせた形での支援の仕方の工夫になります。

ADHDの当事者がいろいろ失敗するのは「不真面目な人」だからではなく、「注意のしかたに特徴があって、新たな刺激に注意が移りやすく、求められている注意点への持続的注意が途切れやすい」と理解することで(※※)、「注意が持続しやすいような環境の設定をする」という形の工夫も可能になります。

そんなふうに、「障がい名」がその人の行動の仕方や理解の仕方などの、定型とは異なる特徴の理解に結びついていくと、まったく何もわからずにどうしていいか混乱してしまう状態を少し脱して、工夫するための大事な手掛かりが得られるようにはなる訳です。

ただ、そのことは前提にしたうえで、次に問題になるのは「そんなこと言っても、ひとりひとりがものすごく多様で個性的だよな」ということなのですね。

先日zoomウェビナーを使って公開講演を行っていただいた綾屋紗月さんも、ご自分の特性を分析して説明してくださるときに、しばしば強調されることは「これはすべての自閉症スペクトラム症者にあてはまるというわけではなく、そうでないという方もあります」ということです。実際、大内さんなども違いの部分を感じられるようです。私から見ても、綾屋さんと大内さんが「同じ」などとは決して思えません。個性が全く異なっていますし、生き方もほとんど対照的とでもいえるくらいに違いを感じます。お二人ともアスペルガー当事者だから、同じような付き合い方でお二人とうまくいくと考えることなど、ほとんど笑ってしまうくらいありえないことと感じます。

そして当事者の内側の視点をとても大事にしている綾屋さんたちがこれまで積み重ねてこられた当事者研究でも、同じ特性を持った方たちと語り合う中で、お互いの共通性が見えてくるとともに、違いもまた見えてくることを大事にされています。「一つの見方だけでその人を判断してしまわない」こと、「外から与えられた枠組みの中にその人をはめ込んでしまわないこと」をとても大事にされているのだろうと思います。

私が理解している範囲では、TEACCHもその問題に敏感な姿勢で支援を行っているように感じます。ひとつには、支援の工夫では常に「当事者にわかりやすく、当事者がそれを使って自分で行動ができる」ための環境設定の工夫、働きかけ方の工夫が追及されています。それは当事者のものの見方、当事者の主体的な工夫を環境から支えてあげるような形になるので、外側から行動をコントロールするような形にはならず、当事者自身が自分でその人なりの生き方を一人一人主体的に工夫していく、ということにつながりやすいように思えるからです。

そしてTEACCHは表面的に理解すれば「構造化」というテクニックにばかり注目が行くようになりがちですが、実際にそこで行われていることは、その点に注意しながらも、常にひとりひとりの子どものその時々の状態にあった支援の仕方を考えていかれているとのことです。そのためには支援のツールもひとつひとつその子に合わせて作られ、しかも実際に使ってうまくいかなければまたその子に合わせて作り直していく、という試行錯誤が続きます。その支援は決して単なる決まったパターンの繰り返しではなく、むしろひとりひとりに合わせた工夫の連続なのですね。(※※※)

それまでわけがわからないと思われていた「人々」に、共通したある特徴があることを理解する、というのは第一段階では必要なことだと思います。ただあくまでそれは一人一人の人にとってはその人の一部の特徴にすぎません。たとえて言えば、血液型性格判断というのは多くの人がとても好きですが、「あなたはA型だからこういう人間だ」と単純に決めつけられることは不可能です。というか、そもそもが基本的に血液型で性格が判断できるという心理学的なデータはほぼ皆無であることが繰り返し確認されているのですが、仮に100万歩譲ってそれが性格がある程度正確に関係すると考えたとしてすら、その血液型でその人の人間としての生き方が決まるなどと言うことがある訳がありません。もしそうなら全ての人類はA型、B型、AB型、O型の四種類の性格ですべて分類されてしまうことになりますが、実際に人々の多様な性格を見れば、そんなことはありえないことは明らかですよね。

言ってみればそういうもので、障がい名もその人の限られた特性を大雑把に示すだけで、それで理解できる部分はとても限られています。ですから、その特性に合った対応の仕方というのがパターンとしてある程度あったとしても、それで対応できる範囲も当然限られますし、そこで対応できない部分は結局無視されたことになってしまいます。そしてその結果

「本来コミュニケーションが生まれる大切さや可能性に、我々が気づきにくくなっている」

ということが起こってしまうように思えます。

この問題をもう少し掘り下げて考えるには、「当事者」という考え方を、「発達障がいの当事者」に限ることなく、「定型発達者」にも広げていくこと(定型発達当事者)が必要なのだと思っています。そのように見ることで、パターン化された表面的な援助を超えた、人と人との間に生み出されるコミュニケーションとしての支援、そしてお互いの違い・ズレを抱えながらも一緒に生きていく共生ということが見通されてくるのだと思えるのです。そのことについてはまたいずれ書いてみたいと思います。

 

※ 「他者の視点の理解の仕方に独特の特性をもっていて」という「原因」に関する注目はどちらかというと心理学的な見方で、ICDやDSMなどの医学的診断基準では「コミュニケーション障がい」という「状態」への注目が中心であるようですが、ここではまとめて説明しています。
※※ 客員研究員の榊原洋一さんは、医学的には「脳の実行機能の問題」と理解されてきていることを解説されています。
※※※ もちろん綾屋さんの当事者研究の視点とTEACCHの視点が同じだと言いたいわけではありません。自分たちの理解を当事者自身の語り合いの中でで作り直していこうとする当事者研究の姿勢とそれに関する理論は、TEACCHがやはり定型発達者の理解する自閉症者、という枠から出発するのとは質的に異なるものを持っているからです。その限りではTEACCHはやはり「外側の目」を基本にしていて、徹底して「内側の目」にこだわる当事者研究とは同じとは言えません。

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