はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2020.11.26

意味がやりとりの中で作られる話

子どもが言葉を覚えていく過程について、古い考え方だと、まず「意味」があって、それに「音」というラベルを付けられるようになることだ、という話になります。実際の療育でもそういう言葉の理解で「意味」に「音」をくっつけようとするようなやり方がしばしば見られます。

 

ただ、心理学の方ではこういう「すでにあるものを二つくっつける」といった考え方はいろんな面で実態に合ってないから、もっと違う見方で理解する、という方向でずっと進んできていると思いますし、そのための理論もいろいろ作られてきています。

 

古いところではピアジェなんかもそうですね。ピアジェにとって「意味」というのは「そのものの扱い方」という視点から理解されることになります。ピアジェの言葉で言えば「シェマ」のことです。あかちゃんが周囲のものを理解していくときには、なめたり叩いたり振り回したり打ち合わせたり、とにかくそのものに働きかけて「どんなふうにそれを扱えるか」と知っていくわけですが、これも「このものはこういう風に扱えるもの」という意味を理解していく過程になります。そういう過程を通してそのものの「性質」も理解されていくことになります。

そのピアジェに決定的に欠けているのは、人と人が「意味を共有する」仕組みの理解です。お互いに最初からあるものの「意味」が同じようなものとして理解されていて、そこに共通の「音」をくっつけたらいい、と言う話なら、相手にそのものを示して、そこに音をくっつけたらお互いに理解を共有できる言葉がそれで成立することになります。でもそもそもそのものものの「意味」自体がそれぞれの個人的な経験からばらばらに作られていくのなら、そこで作られていく意味が共通である保証は何もありません。

だから意味を共有できるには、「お互いの理解をすり合わせる」という調整の過程が不可欠なわけです。

じゃあどうやってその理解のすり合わせ、つまり意味の共有が作られていくのか、というと、典型的なのは一緒に遊ぶ、といったことです。遊びの中で、「これはこういう風に使おうね」という使い方の理解が共有されていきます。そうじゃないと遊びになりませんよね。

また子どもの方も大人のまねが大好きですので、まねを通しても意味の共有が進みます。たとえばスプーンはこういうふうに使うんだ、という使い方を大人のまねで理解していく。最初はうまく使えないけど、見よう見まねで少しずつ調整して大人に近づけていきますし、また大人の方もうまく使えるようにサポートしてあげる。これは「文化が伝承されていく」過程でもあります。

文化と言えば、みなさんは「麺(類)」という言葉から何をイメージするでしょうか。多分ラーメン、ソーメン、うどん、そばなどでしょう。ではパンは麺(類)でしょうか?餃子は?…と聞かれればそれは麺類じゃないよと思う人が大部分ですよね。私もそうでした。ところが中国に行くとそれも麺(類)なんです。

つまり日本では「麺(類)」の意味は、「小麦粉やそば粉などの穀類を使って、それらをこねて細長く引き伸ばしてゆでて、主食になるもの」、ということでしょう。ところが中国では「小麦粉などの穀類を使ってこねてゆでたりふかしたり焼いたりしたもので主食になるもの」という感じです。ですから、餃子も主食なんですね。それで日本では餃子がおかずの位置にあるのが奇異に感じられたりするようです。たとえていえばパンをおかずにご飯を食べているような感覚でしょうか。

というわけで、文化が違うと「主食」として何をどのように扱うかが異なってきますから、同じ「麺(日:めん、中:ミェン)」という音が違う意味になります。「みんながそれをどのように扱うか」ということが「意味の共有」の基盤ですし、その意味の共有があって初めてそれにくっつく「音」が言葉として相互理解のツールになる訳です。

 

そんなふうにやり取りの中で意味が作られ、共有されていくということで私が面白いなあと感じている例の一つは「そこ」という言葉です。たとえばこんな場面を考えてみましょう。

Aさんが駅までの道がわからなくなって向こうから来たBさんに尋ねました。

A「すみません、駅にはどうやって行ったらいいですか?」

B「ああ、(指さしながら)そこを右に曲がってまっすぐ行ったらすぐですよ」

さて、ここで「そこ」ってなんでしょう?まあなにかの場所を指していると考えられますよね。でもその場所ってどこなんでしょう?

地面にはっきりと円が書いてあってそこを示しているわけでもなく、「だいたいそのあたり」程度のことでしょう。つまりはっきりと限定された「対象」が指さされているわけではありません。でもこのやりとりの中ではそれで充分です。(※)

充分と言うのはどういうことかと言うと、そう聞いたBさんはそちらの方に歩いて行って、彼女の判断で適当に「このあたり」を判断してそこで曲がることができるからです。明確な物理的対象がそこに意味として共有されているわけではないんだけど、これで実用的にはちゃんと意味が通じています。その証拠にBさんはそれで駅にたどり着けます。(※※)

つまりこの「そこ」という言葉は、ひとつにはそれを聞いたBさんが自分の「駅に行く」という行動をうまく実現するための手掛かりになればいいわけですし、そしてもうひとつはそういう手掛かりとしての意味が会話と言うやりとりの中でAさんからBさんに伝われば(共有されれば)いいわけです。

これも「あらかじめ<そこ>という場所がある」のではなく、お互いのやりとりと行動の中でそれが「意味あるもの」としてその場で作られたのだ、という例になります。

 

まあ、この話は「そんなこといったって、<だいたいそのあたりの場所>というポイントは最初からあるんじゃないか」と感じて、なんか屁理屈に聞こえる方もいらっしゃるかと想像します。その方にはこんな風に考えて見られるといいかと思います。「もしこの二人の間で道を尋ねると言ったやりとりがなければ、「そこ」と指さされた「対象」はあったのでしょうか?」

もちろん「そのあたり」を含む地面は前からあったと考えられます。でもその地面はただずっと四方に広がっているわけで、「そのあたり」がそこから切り取られて存在しているわけではありません。ずっと広がる地面の中から、「そのあたり」を切り取って相手に示すというのは、この道を尋ねるというやりとりの中で初めて成立したわけですから、そこではじめて「そこ」が対象として作り出され、お互いに共有されたのだと考えられるわけです。(ちょっとややこしいはなしですよね。すみません。でも大事なポイントなんで)

 

ということで、私たちは私たちが生きている世界の一部を、自分たちの活動の中に取り込んで、そこに意味を見出していきます。そして人は他の人たちと一緒に活動して生きていますから、そこでお互いの活動がうまくシンクロしていくように、その意味の見出し方を調整して生きているのですね。

というわけで結論。話が通じ合いにくい子どもと理解を共有するには、あるいは言葉がなかなか出てこない子どもに支援を行うには、この「意味の共有」過程をその子その子に合わせて作り上げていくことが一番大事なことだということです。つまりは「一緒に何かをやる」ことが大事なんだというわけです。

 

 

※ ここでとても興味深いのは、「そのあたり」などの曖昧な言い方が自閉系の方にはとても分かりにくいことがあるということです。現在コロナ問題で「間をあけてならぶ」ことが重要になり、そのためにたとえばレジのところでも立つ位置が床にはっきり示されたりしていますが、これが自閉系の方たちにはありがたいという話も聞きます。定型はその漠然とした「そこ」でなんとなく意味が共有できるわけですが、やりとりのしくみになんらかのズレがある自閉系の方たちはそのようなあいまいさでは意味が共有されにくい、ということが起こっているわけです。これも「そこ」というのがやりとりの中で意味が作られていくことの証拠の一つとなります。

※※ ちなみにアフリカの狩猟採集民の研究をしている高田明さん(ジャパネットのあの人ではありません(笑)。京大アジア・アフリカ地域研究科の准教授です)が、道もないサバンナでどんなふうに人々がほかの人に「道順」を教えるかについての分析などもやられていておもしろいです。(相互行為の人類学—「心」と「文化」が出会う場所:新曜社)これなんかも「やりとり(相互行為interaction)」の中で意味が共有されていく過程についての研究の一つになります。

 

 

 

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