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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

    ブログ総目次(リンク)はこちらからご覧いただけます。

2020.12.11

「当事者」という視点:定型発達当事者と発達障がい当事者

先日、神戸大大学院人間発達環境学研究科主催で

自閉スペクトラム症と知的障害で「私」の発達は異なるのか?~心理療法と発達研究の視点から~

というzoomを使ったシンポジウムがあり、参加しました。

ここでもなんどか話題にしたかと思いますが、発達の道筋はひとつではありません。たとえばお小遣いに関して私たちが行った日中韓越の国際共同研究でも、子どもがお金を介した人間関係の形成の仕方、大人のなり方について、どれほど深くそれぞれに全く異なる文化的な価値観に方向付けられて育っていくのかがよく見えました。日本では意識的にお金の教育をするということは避けられる傾向が強いのですが、そんな「意識して教育する」レベルの表面的な話ではなく、「友達との信頼関係をどうやって作るのか」「自分の欲望をどうコントロールするのか」といった、生きるうえでの根本的な課題に関わる姿勢が世代間で伝承され、その人たちの文化的な価値観を作っていく、その中に重要なものとしてお金の理解と使い方があるのです。

さらに、障がいそものもについての見方や対応の仕方も時代や文化によって大きく異なります。たとえば90年代の上海の障がいを持つ孤児の施設を見学させていただいたとき、自閉や多動の子がみんな椅子に座っている様子に驚きました。座りながら特に何をするわけでもなく、ただ体を前後に揺らしたりとかいう感じでした。

当時の中国ではそもそも自閉症などへの理解もほとんどないと言っていい状況でしたが、当然施設のスタッフの方もそれぞれの子どもの状態を区別している様子もなく、多動の子も自閉の子もみんな同じように並んで座らせているだけで、「自閉症児に対応した療育」という話が成立することもないのですが、けれどもそうやって徹底して「椅子に座る」ことのできる力を作る、という教育の在り方は、中国の教育思想・育児文化の中では古代から連綿と続くものです。

他方、日本は貝原益軒などの儒学者が、中国の「先進的」な育児思想を取り入れる形で子どものわがままを許さないような厳しい教育・育児を説くことがありますし、人口の2割くらいしかない武家ではしつけなどが今より厳しい様子も見えますが、当時の育児関係の本を見れば、実際には大多数の人々の育児は子ども時代の厳しい教育・育児を嫌い、のびのびと「自然に」育つことを大事にしていることがわかります。また武家についても、実は水戸藩藩士の娘だった山川菊栄が子ども時代を回顧した『武家の女性』などを読んでもわかるように、厳しい怖い大人とは全然違ったずっこけて甘えん坊の大人たちの姿も描かれています。戦国時代や幕末に日本を訪れた西洋人がその育児・教育を見て驚いて残した記録を見ても、それはまず間違いないことと思えます。

そして今、発達障がいの特性によって、発達の過程そのものが異なるのではないかということが問題になってきているわけです。特に自閉的な子の場合は言語発達の道筋に非自閉の子と違いがあるだろうということをここでも何度か述べてきましたが、この神戸大のシンポもそういう流れの中に位置づけることもできるだろうと思います。

シンポでは岐阜大の松本拓真さんが、精神分析の素養を持ちながら進めてこられたご自身の学生相談の事例を引き合いに、「自閉スペクトラム症の受身性の文脈から」という話をされました。松本さんはASDの方の中に何事によらず受け身的になる方が良くみられる(受け身の私になる)ことに問題を感じ、なぜASD者がそのようになるのかを考察されています。

また東海大の中島由宇さんはASDの子どもとのかかわりの経験を持ちつつ、知的障がい者のカウンセリングという珍しい実践にカウンセラーとして携わりながら、そこで考えられてきたことを元に、「知的障害をもつ人の『私』とその心理療法について」という話をされました。そして浜田寿美男さんの同型性と相補性の概念(※)を応用する形で、ASDの場合は同型性に基づく同調的なかかわりの部分でコミュニケーションに困難が起こりやすく、その問題がクローズアップされやすいのに対して、知的障がいの方の場合は相手に合わせる形での子どもの側からの同調的なかかわりはあっても、逆にその子に対して周囲が同調的にかかわる必要性については気づかれにくく、その結果周囲に支えられながら自己を主張できる「私」が育ちにくいことを指摘されます。

二人の話題提供を受けて浜田寿美男さんがお二人の議論が主に注目されている「人と人」の関係を超えた、「人と物」との関係を組み込んでの議論の必要性を指摘されていました。浜田さんは常々、人が自然の中で生きていて、ただ人が人と直接向き合うだけの関係(※※)ではなく、自然に向き合う人と人の関係の中で生きるという視点から発達を考えるべきであることを主張されているのですが、その視点からの問題提起だったと思います。

ディスカッションで私はお二人に対して「当事者」の視点を組み込んで考えることの必要性についてお話をして意見を伺いました。司会で神戸大の山根隆宏さんや話題提供のお二人もその問題の重要性についてはおおむね同意されたように思えましたし、特に松本さんはご自身の臨床体験から、定型発達者の視点では理解がむつかしいASDの方とのコミュニケーションについてリアルに思い起こされながら語られていました。

その後、今度は浜田さんが私に「ASDの当事者、ということを言われたけれど、本当は定型発達者も当事者だというところが大事なのではないか」という趣旨の問題提起をしてくれたのですが、そうなんです。まさに私もそう考えていたので、そうお答えしました。

その意味はこういうことです。

発達障がい者が発達障がい者と名付けられる(診断される)のは、本人かまたは周囲の人がなんらかの困難を感じていることがきっかけになります。最初は何が理由かわからないのだけれど、周囲の人たちが「普通にできること」や「常識的なふるまい」から外れ続けてしまう。そのことでトラブルが起こり、本人が周りの人、あるいはその両方がつらい思いを重ねるということがあり、その原因を探す中で、「発達障がいの特性を持っている」という風に判断されて、発達障がい者と名付けられます。

そして本人あるいは周囲の人がその困難を少しでも減らすことができるような工夫を重ねることが「療育」とか「支援」ということになります。

ここで「療育・支援」の在り方について、単純化すると二つの方向性があります。ひとつは本人が周りに合わせられるように努力する方向で、もうひとつは周りが本人が生きやすくなるように努力する方向です。どちらを強調するかはその人の持っている価値観によっても異なりますし、またいわゆる支援の技法などもどちらに重点を置くかが違います。

たとえばABAは基本的に「好ましい行動を増やし、好ましくない行動を減らす」ためのテクニックですが、では「好ましい」とは何か?「好ましくない」とは何か?ということは基本的には本人ではなく周囲が決めることで、周囲が決めた「正しいこと」や「好ましいこと」に本人が合わせられるように訓練する、という形になることが多いと思われます。そうやって「今の社会に適応できるようにする」ことで困難を減らすことが大きな目標になります。

TEACCHは基本的にASDの人が、「その人の特性に合わせて自主的に生きやすくなるように環境を整える」工夫です。この場合も「今の社会に適応できるように」という要素はないわけではありませんが、むしろ環境(社会)の側が、その人に合わせた配慮をすることで困難を減らす、というところにより大きな力点があります。

方向性はほとんど正反対と言ってもいいくらいですが、いずれも「困難を減らす」というところでは一致していますね。

さて、この二つの方向性があることからわかりますが、そもそも「困難」が生まれる理由は発達障がい者の特性が周囲の人々が持っている基準にうまく合わせられないことから起こります。その解決としてたとえばABAは周囲の基準に合わせる方向で困難を減らそうとし、TEACCHはむしろ周囲の基準をASDの人の特性に合わせて調整しなおすこと、言い換えればASD基準に合わせることで困難を減らそうとしているわけです。

私自身はどちらかに合わせるというよりも「お互いの基準をすり合わせる=調整する」というところで考えていきたい立場です。またTEACCHもASDの人の基準を大事にしますが、実際に行われている工夫(たとえば構造化のテクニック)はそれがあっても別に定型の側がこまることはなく、場合によって定型にとっても便利な方法になったりと言うユニヴァーサルデザインになることもあるので、その意味では「調整」に近いところもあるでしょう。

綾屋さんや熊谷晋一郎さんたちが模索してこられた当事者研究では、まずは当事者同士で語り合う中で、周囲も本人にすら通常気付かれにくかったり、無視されがちな発達障がい者にとっての基準(当事者の視点)を見つけ出していくことに現在の力点が置かれているように思いますが、それも「定型発達者が発達障がい者の基準に従うべきだ」という考え方ではもちろんなく、「お互いに異なる基準を持っていることを認め合いましょう」ということを大事にしているのだと思います。ですから、そのうえで改めて異なる基準同士をどうやって折り合いをつけて一緒に生きていけるようにするのかが課題になっていくはずです。

そういうふうに「お互いに折り合いをつける=調整する」と言う視点から考えていくということは、言い換えると次のようなことになります。

それぞれの異なる基準は、それぞれの人たちが自分の持っている特性で生きやすい形に作られます。ですから今の社会はだいたいは多数派である定型発達者の特性に合わせて作られていますので、定型発達者にとっては生きやすいですが、発達障がい者にとっては生きにくくなります。けれども逆にこの社会を全部発達障がい者の基準に合わせてしまったら、今度は定型発達者が生きづらくなります。

現実的には発達障がいの方も多様なのでそんなことはできませんので、一種の思考実験とも言えますが、ただ部分的にはこれはリアルな場面でも確かめられることです。たとえば夫がアスペルガー者である家庭の場合、奥さんが家庭内では力が強い立場の夫の基準に合わせることを求められ、それができずに激しく苦しむ、というカサンドラ症候群とも名付けられるような深刻な困難に陥ることがあります。ですから、単純にどちらかに合わせればいいという話には決してならないのです。

そこで目指されるべきことは、どちらかの基準に合わせることではなく、それぞれの基準はそれぞれに持ちながら、それを調整して「お互いが生きやすくなる」という状態を作っていくことだと考えられるわけです。

ということは、定型発達者にとっても自分にとっての「生きやすさ」を改めて探っていく必要があります。そしてそういう形で問題を考えることは、この問題についての「当事者」の立場に立つということでもあるわけです。そうやってお互いがお互いの生きやすさを共に探り合う当事者になること。自分は相手の外側にいて相手が自分に合わせてくれるように待つのではなく、自分も自分を見直しながらお互いに生きやすい道を探ること。そのためには自分も自分の内側の目を忘れることなく、相手の内側の目と付き合って考えていく必要がある。それこそが「当事者」という視点を大事にすることなのだと思います。

私たちは発達障がいの問題を考え、それに取り組むときに、それぞれの立場で「当事者」としてそこに関わっていく必要がある。それがこの記事で言いたかったことになります。

※ 私たちはだいたい同じように働く体を持っています。その体に支えられて私たちの心理的な世界も、お互いに共有する基盤があります。そのように心身が「同型」であることが、私たちが世界の意味を共有できることの基盤になります。他方で人はお互いに補い合う仕組みを持っています。たとえば人が「話す」とき、相手は「聞く」と言う形でお互いに補い合う役割を持つことで会話が成り立ちます。人間はみんな「同じ」だけではなく、それぞれが「違う人」として振る舞いながら、お互いを補い合う「相補」的な関係の中で一緒に生きていきます。異なる身体をもって生きる私たちが、それでもお互いにつながって世界を共有して生きることができるのは、そのような「同型性」と「相補性」という二つのありかたを共に生きているからだと考えられます。

※※ 今なぜこれほどに発達障がいが問題とされてしまうのか、昔ならもっとおおらかに関係が取れたはずの特性の違いが、なぜこれほどまで神経質とも言えるほどに問題視されるようになってしまったのかということの原因を、浜田さんは物の世界、自然の世界の中での暮らしを共有しながらそれぞれが生きていく、という形が失われ、人と人がお互いにむき出しに向き合って関係を作っていかなければならないような世の中になったからだと考えられています。
浜田さんの子どものころは、たとえば鶏の世話は浜田さんの責任で、そうやってその子にできることを分担して「家族が共に協力し合いながら自分の役割を果たし、一緒に生きていく」という形があったと言います。できる子はできるなりに、できない子は出来ないなりに、その子に可能な形でその子が必要とされて生きる場所が、そういう形で作られていったわけです。
ところが今の家族にはそういうことが希薄になってしまっている。家のお手伝いをするよりは「そんなことはいいから勉強しなさい」と言われたりする。そして子どもが勉強をさせられるのは、「子ども自身の為」であって、「みんなの為」ではない。そのことを鋭く感じ取る子どもは、「あなたのためなんだから」と勉強を要求する親に対して「自分のためなら別にそこまで頑張る必要もない」ということを見抜いてしまうのです。人は自分自身のためだけに生きるのではなく、「人のために(も)生きる」から、そこに責任が発生し、また自分の生きることに意味が感じられるようになる。
むき出しの人と人との関係を生きる社会は、そのようにお互いに自分の役割を果たしながらお互いを助け合って一緒に生きていく、という形がむつかしくなってしまい、ただ「相手とのコミュニケーションを上手にする」というテクニカルなことばかりに目が向いて、お互いに助け合いながら、分担しあいながら一緒に生きていくためという、「何のために」の部分が見失われる状態で、そのテクニックが身に付きにくい人たちを「発達障がい」として括りだしてしまうような展開が起こっていると考えられることになります。

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