2021.04.09
自閉的な「嘘」を形成論的に考える
第一回逆SST後も、引き続き大内雅登さんと「損をしても本当のことを言わない」理由について、いろいろやりとりしながら考えていますが、さらにその議論の輪がちょっと広がるかもしれなくて、私が参加しているMC研(文化理解の方法論研究会)のメーリングリストで、その問題を巡って浜田寿美男さんと大内さんのやりとりも始まりました。もちろんほぼ単発で終わるかもしれないのですが、意外と重要な議論に展開する可能性も感じています。
議論のポイントは何かというと、自閉系の人が話すことが、実は本当に伝えたい内容になっていないことが多く、ところがその言葉を定型が「文字通り」に受け止めることで、ちぐはぐなコミュニケーションが展開して、結局誰も得をしない、というようなことがなぜ起こるのかです。
「逆SSTから考えたこと」では私はそれを「本音と建て前」のズレ方という視点から考えてみました。話すことは状況に合わせて「建て前」として語り、実際にはそれとは違う気持ち、つまり「本音」を持っている、ということは定型ではよくあることです。
そしてこの本音と建前の作り方は文化によっても結構異なり、たとえば日本的な建て前を言っても、日本人同士なら「それは建て前」と結構すぐに伝わって、本音の理解に進むところ、韓国の人には全然伝わらず、建て前が本音と取られて混乱してしまったりします。
アメリカで「あなたは、このことができますか?」と尋ねられて、日本人が本当はとても得意なんだけど謙遜の意味で「少しだけなら」と答えると、「ああ、あなたはあんまりできないんですね」とそのまま受け止められて無視される、ということも聞いたことがあります。
これもまた(文化間で生じる)ディスコミュニケーション現象の一つですが、それと完全には同じではなくても、似たようなことが定型発達者と自閉系の人の間で起こっているのではないか、ということを書いたわけです。
ただ、それだけで説明できる問題なのかについては私自身がすっきりしないところがあったし、渡辺さんもそのようでしたが、浜田さんへの大内さんの応答を見ていて、それに教えられてもう少し自分の中で整理されてくることがありました。
「自閉を生きる」でちょっと考えてみたんですが、自分の思いが相手に伝わらない状況にずっと置かれると、とりあえず自分の素直な思いを理解してもらうことより、自分の目的を達するようなやり方を模索せざるを得なくなることがあります。たとえばクレーン現象などもその視点から考えるとわかりやすいかと思いますが、子どもが大人に何かをしてもらいたいと思っている。
でもどうやったらその欲求を大人が理解してくれるのかがわからない。だから「自分がしてもらいたいことを相手がやってくれるときは、こういうことが起こる」という、結果の一部を大人の身体を使って実際に再現するわけです。とってほしいもののところに手を運んでいく、とか、鍵のかかったドアを開けてほしいときにノブのところに大人の手を運ぶとか。
それをされた大人の方は、一応要求の意味は想像できるので、それに応じてくれて、結果としてその子の目的は達成されるのですから、それがその子にとって理解しやすいコミュニケーションの手段として使われるようになることになります。
ところがそうされた大人の方は、このクレーンをされると、何か自分が道具のように扱われたような、奇異な感じを受けます。
言葉のできる子なら「○○取って」と要求されて、「どうぞ」と取ってあげると「ありがとう」とお礼を言われる。あるいはまで言葉の直前くらいの子でも、大人の顔を見て、欲しいものの方に手を伸ばしながら「ああ、ああ」などと声を上げ、大人がそれを取ってあげると嬉しそうにする、というのが定型的なコミュニケーションではよく見られるパターンです。
ところがクレーンではそのパターンにはまらない。相手に話しかけて、理解してもらって、その人の意志で手助けしてもらい、喜びや感謝を表す、という形にならず、体を物理的に動かされて、目的を達成するとそれでおしまい、という形になってしまって、「私は単に利用されただけ?」という印象が残ってしまうことになります。
クレーンも相手に対する働きかけ方の一種ですから、これもコミュニケーションの一つの形ととらえていいと思うのですが、そこでコミュニケーションの目的に何が含まれるのか、というところにずれが生じるように思います。
ここで重度の自閉的な子どもの話から、アスペルガーの大人の人へと話を飛ばします。カサンドラ症候群といわれる状態があり、これは定型(多くは女性)とアスペルガー(多くは男性)のカップルで生じる困難の中で、特に定型の側が精神的にやられてしまう状態を指して言われます(実際はアスペルガーの人もやられるんですが、カサンドラといわれるときは主に定型の方ですね)。
そこでしばしばいわれる例に、「アスペルガーの男性は結婚するまではこまめにプレゼントをしたり、情熱的に迫っても、結婚したとたんに『釣った魚にエサはやらない』とでも思っているかのように、全然気遣ってくれなくてショックを受ける」というような話があります。
定型はたとえ結婚した後でも、お互いに感情的なつながりを維持し、深めるためのやりとりが必要だという感覚が強いのに対して、どうもアスペルガーの人は「結婚したらそれでもうつながっているのだから、改めていろいろする必要は感じない」という感覚になる人が結構あるらしいのです。それは別に「釣った魚に」という話ではなく、つながりと感情の関係についての感覚の違いが関係しているように思います。あるいは言い換えれば感情のつながりが何によって維持されるのかについての感覚の違い、ということでしょうか。
定型は結婚後もプレゼントなどの行為を時々繰り返すことで維持しなければならないと感じ、またそうされることによって自分のつながりの感覚が実際に強められる。アスペルガーの人はそんなことしなくても、結婚しているんだからそれだけでちゃんとつながっているんだ、という感覚になる人が多くて、改めてそれ以上のことをやる意味がぴんと来ない。そんなズレです。
つまり、どういうコミュニケーションを通してどういう状態が達成されるのか、コミュニケーションの目的は何か、ということについての感覚、繋がりの作り方、さらにそこで他者との感情的なコミュニケーションやその表現をどう絡めようとするのかについて、結構深刻な感覚のズレがあって、このギャップがいろんな問題につながっていくと思えます。その点でクレーンの話もカサンドラの話も同じ構造を持っていると思えます。
それで、最近の大内さんの話を聞いて、なぜそういう目的のずれが生まれるのか、ということについてもう一歩踏み込んだ理解を提供してもらうような気がする、というわけです。それは私の理解ではこういうことです。
まず、出発点は自分の気持ちが伝わらない、理解されない、という自閉系の子が置かれる状況です。そうすると、本来は「自分の気持ちを伝える」ことが目的だったはずの状態が、そこに行きつかずにその前段階にある「話すこと自体が目的になる」という状態になる、というわけです。その結果何が生ずるかというと、「どういう内容が伝わるか」への注目が減少し、「(本来伝えたいことではなくとも)何かが伝わればよい」ということになってしまう可能性が出てくる、というわけですね。
とても面白い視点の議論だと思います。これでどこまで事態が理解できるかはもう少し考えてみなければならないと思っていますが、この話は結構社会的にも大きな問題につながります。というのは、もともと浜田さんとのやりとりは、虚偽自白を巡る、最近の浜田さんのインタビューに端を発して、私がその議論の意味をメーリングリストで考えてみたことに始まっています。
しかも虚偽自白は簡単な事件ではなく、死刑になるかもしれない重大な事件でも繰り返されています(※)。ここでも「全く利益にならない嘘をなぜつくのか」という問題が深刻なこととしてあって、その理由の問題に正面から取り組んだ浜田さんの大著が「自白の研究」ですが、その問題が自閉系の人の「嘘」の問題につながって大内さんと議論されたわけです(※※)。
大内さんのブラックコーヒーの話のように、「本当にやりたいこと、言いたいこと、伝えたいことを表現せずに、ほかの話や振る舞い方をしてしまう」というのも一種の嘘とも言えますが、そこには悪意があるわけではなく、ただコミュニケーションというものが「何のために行われるのか」ということについての理解のズレ、あるいは混乱がある。
さらに言えば虚偽自白に追い込まれる人は、逮捕された弱い立場で厳しく取り調べられるという、圧倒的な力関係の中での弱者の立場に置かれます。同じように自閉系の人は圧倒的に多い定型発達者の中で弱者としてそれに従わなければならない状況に置かれる場合が多い(もちろん逆のケースもありますが)。「理解されること」に絶望せざるを得ないような状況で、しかも弱い立場に置かれ続けたとき、人は言いたいことと語ることにずれが起こり、客観的には「嘘」といわれるような言動をするようになる(浜田さんは「悲しい嘘」と言ったりします)。そんな仕組みが共通にあるようにも見えます。
そのズレは、特に発達障がい(自閉系)の場合は一時の偶然のことではなく、その人がそれまで子ども時代から生きてきた中で、なんとか周囲とうまくやろうとして作り出してきたもの、浜田さん的に言えば「形成されてきたもの」なのだということ。だからそのズレの意味を理解しようとすればその形成過程を理解する必要があること。大内さんの話は、そこにつながっていくものだという風に思えます。
この問題、さらに深堀していく必要があると思っています。
※ 虚偽自白というのは多くの方が思っているよりもずっとたくさん発生しています。アメリカでは1973年以降、8700人以上が死刑宣告を受け、1500人以上の死刑が執行されたのですが、死刑宣告を受けた人のうち182人は冤罪が証明されています。そしてその中には自白を伴うものも少なくないのです。「死刑になるかもしれない事件で、わざわざ嘘の自白をするはずがない」と誰でも思いますが、現実は全く違います。仮に肉体的な拷問がなくても、人は嘘の自白に追い込まれることがあるのですね。
実際足利事件の菅谷さんの場合は、まだ任意の取り調べ(逮捕前)でその日のうちにうその自白をしてしまい、裁判になっても最初は自白を続けました。その後、支援の人に「本当のことを」と説得されて自白を翻したのですが、裁判所は全く信用せず、最高裁まで殺人罪での有罪が維持されて収監されてしまいました。それから9年して、ようやく新しいDNA鑑定で無実が証明されたという展開です。
※※ 幼児や知的障がい児、知的障がい者が不適切な取り調べでうその証言をしてしまう危険性についてはようやくある程度理解されて(関連する私たちの研究では「生み出された物語」)、慎重な対処も始まってきてはいますが(仲真紀子さんの「子どもへの司法面接 — 考え方・進め方とトレーニング」など)、これはまだ私の想像にとどまるものの、自閉系の人が被疑者になった時、この「語ることの意味のズレ」がネックとなって、誤って真犯人とみなされて追及され続ける中で、混乱して自白に追い込まれるケースは結構あるのではないかと思っています。
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