2019.10.28
子どもの頑張る姿
お子さんの様子を見せていただいて、私が嬉しくなるのは、その子がその子なりに色々工夫して生きている姿に触れたり、その子なりに頑張っている様子を感じとれたりするときです。
頑張ると言っても何かに一生懸命に取り組んでいるとか、そういうことには限りません。むしろ何もできないで固まってしまっているような状況など、ちょっと目には頑張っていないように見える時もそうです。何かの理由で頑張れずにつらい状態にあるときにも、じっとそれに耐えている。そのこと自体が頑張っていることになる。そんな風に感じられたとき、ある意味でその子の命に触れたように、嬉しく思います。
もちろんいつもそう感じられるわけではなくて、何かがあって初めてそう感じられるのですが、それが何なのかはよくわかりません。その子なりの「生きざま」が感じられたときかもしれませんが、どういうときにそれを感じられるかもよくわかりませんし。
あるいは、生きようとする姿を感じられたときでしょうか。その時何か応援したくなるような気持ちが湧いてきて、それが嬉しいのかもしれません。
こうやって書きながらふと思ったのですが、そういう応援の気持ちというのは、「自分が相手のために何かをしてあげよう」とか、「自分にはそんな力がある」という気持ちではないんですね。生きるのはその子でしかない。頑張るのはその子でしかない。私がその子の代わりに頑張ることはできないし、その子の代わりに苦しむこともできない。ただ、その子がその子なりに頑張っている姿を感じて、その姿を大事に思う、ということまでです。
その子の命への畏敬の念、というようなものなのかもしれません。
結果としてそのような気持ちやそこから自然に出てくる態度がその子には意味が出てくることがあるのかもしれませんが、そうだとしてもそれは結果としての話でしょう。
そういう気持ちの持ち方というのは、いつの時代でも、どこにでもあるのかなという気もします。そう言えば以前、サン族の人が自閉の子のことをとても大事に思っていたというエピソードを紹介しましたが、そこにもどこか通じるものがあるかもしれません。
- 支援者こそが障がい者との対話に学ぶ
- 「笑顔が出てくること」がなぜ支援で大事なのか?
- ディスコミュニケーション論と逆SSTで変わる自閉理解
- 冤罪と当事者視点とディスコミュニケーション
- 当事者視点からの理解の波:質的心理学会
- 自閉的生き方と「ことば」2
- 自閉的生き方と「ことば」1
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
投稿はありません