2020.06.30
リアルとバーチャルの関係(2)イメージの世界の成立
というわけで前回、VRやARの話から始めましたが、私の部屋にもバーチャルな虎がやってきましたし((笑)ちゃんと影もあります。写真撮影するとき、逆光だと暗く映ったりもします)、こういう世界がこれからどんどん広がっていくことは確実です。動画でも撮影できます。
さて、問題は遠隔支援です。遠隔支援はzoomなどを使って支援を行います(その具体例はこの動画でも一部紹介しています)し、そこでやり取りするのはアバターなどではなく、実際の支援者と子どもです。その意味では電話でコミュニケーションするような関係を、映像付きでもうちょっと情報量を多くして行うようになっただけ、と言えなくもありません。
とはいえ、実際に対面して行う支援(対面支援)と比べれば、お互いの間がより間接的になることは間違いなく、その意味でお互いの息遣いなどを感じながらのリアルな人間関係から距離が生じてしまう面が確実にあります。
理念的に言えば、支援というのは人と人のぬくもりの中で、コミュニケーションを交わすところから出発しなければならない、という考え方も十分成り立ちますから、こんなふうなIT機器を仲立ちにした支援はよくないという風な見方もできます。
「本物志向」というような感覚から言っても、そういう機器を仲立ちにした世界は、まさに「虚構」の世界に近く、本物の世界の豊かさを見失わせてしまう、という可能性もあります。写真や動画でいくらリンゴを見せたところで、本物のリンゴを一回手に取ってにおいをかぎ、重さや硬さを感じ、味わってみる体験に比べたら、実に薄っぺらいものになる、ということも多分間違いありません。
障がい児の支援こそ、「本物」を大事にすべきだという考え方は、それはそれで説得力があって、その視点を外すことはできないだろうと思っています。
また現実問題としても、いろいろな福祉の現場では、人がリアルにかかわることが絶対に欠かせない場面があることも間違いありません。たとえば老人介護で老人の食事のサポートをするとき、おむつ替えをするとき、散歩に連れ出すとき、遠隔でそれをやるなど不可能です。将来的にロボットで代替等ことも一部出てくるでしょうが、それもやはり「人間味にかける」という印象は少なくとも今はぬぐえないでしょう。
もっと素朴に言えば、私たちはこの体を持っている限り、リアルな世界抜きに生きることは不可能です。このリアルな体があって初めてバーチャルな体験もできるわけで、その逆ではないわけです。だとすれば、おおもとのリアルの世界を大事にしない支援はありえないということにもなるでしょう。
だからVRやARなど、バーチャルな世界を考えるときにもリアルな世界をベースに考える必要があり、同じように支援の形も対面をベースに遠隔も考える、という形がやはり基本なんだろうなと思います。
以上の事を一応前提にしたうえで、リアルとバーチャル、対面支援と遠隔支援の関係をどう考えたらいいのだろうか、ということがここで整理してみたいことです。遠隔支援は全くダメなのか、それとも使い方の問題なのか、ということですね。
ということで、その問題を考えるために、少し回り道をさせてください。そもそもリアルってなんで、バーチャルって何なのか、という話です。あるいはバーチャルの人に対する意味とか。
こんな話から始めましょう。夢の話です。以前も書いたかと思いますが、夢は現実ではありません。自分の夢をほかの人が見ることはできず、夢で起きたことを本当に起きたことと思い込んでしまうとほかの人との間で大変な混乱が起こります。その意味で夢はあくまで自分の中に生み出されたバーチャルな世界の出来事ということになります。
幻覚とか幻聴とかもその人が生み出した世界の出来事で、他の人とは共有できません。その意味でバーチャルな世界の出来事です。
なんでそういうことができるか、つまり私たちがなんでそんな風にバーチャルな世界を自分で作り出して体験できるかというと、それは私たちに知覚の力と記憶の力があるからです。知覚というのは、主に私たちの外の世界の出来事を、感覚器官でキャッチして把握理解する力です。「ここに○○がある」「これは重い」「これはしょっぱい」などなど、そういう判断が働きます。知覚的な同定とか知覚判断と言います。
しかもその知覚はそのものを見たり触ったりしているその場だけに成立するわけではありません。視覚でいえば残像というのがありますよね。見たものの光の影響が網膜に残り続けて、それがなくなっても残像という形でその形が見えたりするものです。色の場合は反転した色に見えます。
また網膜などの感覚受容器の中に残った影響を超えて、その経験が脳に神経回路など何らかの形で痕跡を残します。それが記憶となり、そのものがない時でも自分でその知覚した体験を再現することができるようになります。「思い出す」とか「思い起こす」といったことですね。目の前にいない人の顔を思い浮かべたり、その人の声を頭の中で再現することもできます。
この、自分の中で作り出したイメージは、私の場合は特に視覚的なものはわりとぼんやりしたものですが、中には本当に目の前にそれがあるかのようにリアルに見える人もいるようです。昔のソ連時代の有名な心理学者にルリアという人がいて、「超記憶能力者」の研究をしていますが、その長記憶能力者はイメージの力がすごくて、たとえば朝時間通りに起きて支度をして職場に向かう。本人はリアルな世界を移動しているつもりなのに、実はまだベッドの中に居たりする。その通勤は自分のイメージが作り上げたものだったのですね。
また、天才的な人には結構そういうリアルな視覚イメージを持つ人がいるようで、以前お世話になった故野村庄吾先生(奈良女子大学名誉教授)などは、学校時代、試験勉強というのはほとんどしなかったということでした。前日に出題範囲の教科書を一通り見ておくと、試験の時に頭の中でそのページを思い出してめくっていって、答えを「見て」回答できたんだそうです。合法的なカンニングですね(笑)。
こうなってくると、前回説明したARになんとなく似てきませんか?ARの場合はソフトで作ったイメージを現実世界に投げ入れて私たちに見せてくれる。同じように野村先生は頭の中の教科書を試験会場でめくってみることができる。どちらも実物はそこにはないのですが、あたかも本当にそこにあるように「見える」というバーチャルな存在になっています。
幽霊をリアルに見る方があるようですが、もともと人間はそういう「その場にはないものをリアルに見る」力を備えているんですね。だからほんとうにそこに霊があろうとなかろうと、私たち(の少なくとも一部の人)は、幽霊を目の前にリアルに見る力を持っているわけです。それはバーチャルなものと言ってもいい。
そういう風に過去に知覚したものを記憶して、それがない時にも必要に応じてイメージとして再現できる力は動物が生きていくうえでものすごく大事な力だと言えます。動物はお化けを見ることができるように人間まで進化してきた、と言えるかもしれません(笑)。
さらにはそのイメージが共有される世界の形成について、話は次回に続きます。
- 支援者こそが障がい者との対話に学ぶ
- 「笑顔が出てくること」がなぜ支援で大事なのか?
- ディスコミュニケーション論と逆SSTで変わる自閉理解
- 冤罪と当事者視点とディスコミュニケーション
- 当事者視点からの理解の波:質的心理学会
- 自閉的生き方と「ことば」2
- 自閉的生き方と「ことば」1
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
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