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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2020.10.12

聖なる偽り:嘘と思いやりの微妙な関係

特にコミュニケーションのスタイルにずれが起こりやすい定型発達者とアスペルガー者の間で、「嘘」がお互いの関係を悪くすることについて、これまで2度ほど考えてみました(自閉系の子が「嘘つき」と見られてしまう場合なぜ自閉系の子が言葉遣いで怒られるのか?)。実はこのことは別に定型発達者とアスペルガー者の間で起こりやすいだけではありません。文化が違う人々の間でもとても起こりやすいことです。

 

つまり、コミュニケーションのスタイル、コミュニケーションを成り立たせるための基本的な「約束事」について無意識に持っている常識がズレると、同じ「嘘」がばれることで相手の信頼を裏切り、相手を傷つけるものとして感じられることが起こりやすくなります。逆にその「嘘」が相手に対する思いやりとして理解できる場合には相手との信頼関係を強めることもあります。

すこし具体的な例を挙げてみます。

韓ドラを見ていると、「本当のことを言わない(あるいは嘘を言う)」場面がしばしば見られます。それも相手をだまして自分の利益を得るためではなく、自分が不利になっても相手のためになるように嘘をつくような場面、つまり「深い思いやり」の嘘です。

あるドラマでは、本当の自分の子どもではない子を自分の子と信じさせて愛情深く育てたストーリーがあり、それがいろいろな関係がこじれて子どもが父親を激しく恨む状況になりました。「お前は自分の子ではない」という事実を伝えれば、そのように恨まれる状況はなくなり、やがては自分の思いやりが伝わり、結局関係が良くなるように私には見える事態なのですが、父はそれを言いません。

そしてそのような判断は父だけのものではありませんでした。父が実家で家族にその状況を話すと、祖母が「嘘をつき通してお前が悪者にならなければならない」と言い、みんな同意するのです。

もちろん日本でもそういう状況は全くないとは言いません。思いやりの嘘ということでいえば、たとえば家族のだれかが不治の病に至ったとき、それを家族が伝えない、という話はよくあることです。私自身も祖母がそうなったとき、周囲が絶対にそれを伝えようとしなかったため、祖母からそれとなく探りを入れられたときにも迷いながらも知らないふりを通したことがあります。

ただ、韓ドラで不思議に感ずるのは、本当のことを言えば誤解が解けて、関係が良くなるように私には感じられる場面で、なぜか自分を悪者にして嘘をつく、という場面がよくみられることなのです。おそらく日本の中ではそういうタイプの「わざわざ自分が悪者になる」タイプの嘘は少ないのではないかと想像します。(※)話の展開を見ていると、自分を悪者にするその嘘は「そうやって相手が自分を憎むことで、相手に何かをあきらめさせることができ、それが結局相手の幸せにつながるのだ」という強い思いが背景にあるようなのですが、それが「相手の幸せにつながる」という部分がなぜそうなのかがよくわからなかったりするんです。

もしかすると、特に東アジア地域では、そういうタイプの嘘は「関係をよくする」ために重視されている地域が多いのではないか、と思うこともあります。その中で日本は比較的「嘘をつくこと」に対して否定的な感覚を強く持っているように感じます。子育ての時にも「嘘をついてはいけない」ということをかなり子どもに強く教えたりしていて、「関係維持のために必要な嘘はつくべき」みたいな話をしたり、そういう姿を親が見せたりする話はほとんど聞かない気がします。日本で好まれる「赤き心」とか「赤誠」といった観念は嘘とは対極のもののようにも感じますし。

さらに東アジア地域に限らず、欧米と比べてもそうかもしれないと最近感じたことがあります。それは今から500年ほど前、九州のキリシタン大名の名代として、イエズス会の神父たちの計画でヨーロッパに派遣された少年たちのことを描いた「天正遺欧使節」(松田毅一1999)という本のエピソードでのことです。

この使節団についてはこれまでほとんど私は知りませんでしたが、ポルトガルやスペイン、そしてイタリアを中心に、当時この使節団が熱狂的に受け入れられ、歓待されている様はおどろきでした。ローマ教皇も涙を流して歓待し、子孫にわたって貴族として認め、ローマ市民としての完全な特権を認め、各国に彼らを歓待することを命じています。彼らの訪れる国や都市ではどこでも「聖人が街にやってきた」といった風情の熱狂的な歓迎で、各地の人々がその熱狂を競い合うような感じになったようです。変な喩えですが、異星人が発見されて、その異星人もキリスト教に服してはるか遠方から命がけでローマ教皇に会いに来たことへの感激といった印象もあります。

そういう当時の状況を説明する中で、松田さんが「聖なる偽り」という言葉を引き合いに出しているのですね。

当時「日本遺欧使節」の動静をつぶさに観察し、その題名の名著をものしたグアルティエーリは、彼らがもし(ヨーロッパの旅で)醜いものに接した時には、「聖なる偽り」によって彼らを純真なまま母国に帰らせるべきだと書いている。聞くところによると、そういう身勝手な言葉は当時ヨーロッパではかなり流布していたらしい。(講談社学術文庫版 p.247)

イエズス会の神父たちの意図は、少年たちにヨーロッパキリスト教文明の偉大さを実感してもらい、それを理想郷として本国に帰って伝えてもらうことによってその後の伝道の道をさらに展開しようというところにあったようですから、その素晴らしさの面をたくさん見せて「醜いもの」には触れさせない、ということをかなり徹底したようです。そして著者の松田さんはこの「聖なる偽り」について「身勝手」という言葉で批判し、その後の文章でその「嘘」の内容を看過できないものとして語っています。

自分を相手によく見てもらうために、自分の醜い(と自分が感じる)面を隠そうとするのは、おそらくどこの社会のどの人にも多少なりともあることでしょう。その点では日本の社会でも変わりはないと思います。ただそのための「嘘」がどういう目的の時に、どの程度のレベルまで肯定されるか、というあたりに社会や個人による違いがかなりあるように思います。

 

同じようなずれが、定型発達者とアスペルガー者の間にも時にかなり深刻な問題を生むレベルにまで存在しているように思えるのです。

何度か指摘してきましたが、定型発達者は会話の中で「あいまい」な言い方を好むことがよくあります。特に欧米や中国などと比べて日本的な人間関係ではそれが著しく多いと思えます。なぜ日本ではそういうあいまいな言い方を重視するかと言うと、はっきりと自分の意見や要求を言う前に、少しずつそれを小出しにしながら相手の反応を確かめ、それによって主張を調整したり引っ込めたりして合意に至りやすくするひとつの文化的に創り出されてきたコミュニケーションの工夫なのだろうと思います。逆にそこではっきりと自己主張をするのは「我が強い」などと言われて否定的にみられるのが一般的です。(※※)

そういうあいまいさを重視する姿勢は、「相手が言葉で表現しない意図を読み取る」力を前提にして成り立ちますので、そういうのが好きでなかったり苦手だったりする人に対しては厳しく攻撃されるようにもなります。「KY」といった言葉が相手を強く非難するときに使われるのはその典型例で、私の知る範囲では、欧米や中国などではそれは「KY」の人が悪いのではなく、はっきりと意思を相手に伝えなかった方が悪いのだと理解されるように思います。人間関係で重視される基準が正反対なのですね。

この「常識」的な基準は世代が変わってもずっと維持されていて、それだからこそ若い人も「KY」という新しい言葉を相手を否定する言葉としてごく自然に生み出していったのだろ思います。言葉は新しくても、その中身はまったく「日本的」な文化的パターンの再生産になっています。

この日本社会に深く浸透した感覚が良く表れると、相手の事を大事にする「思いやり」になり、日本人が非常に優れていると言われる「おもてなし」の姿勢に発展していきます。「和」の心、というのもそうですね。実際自己主張をばんばんぶつけ合う中国社会から帰ってくると、日本はほんとうにおだやかなやさしい社会だとしみじみ思うことがあります。(※※※)けれどもこの感覚が悪く展開すると、「みんな同じでなければならない」という強力な同化思想になり、多様性を否定して「異質なものを認めない」スタイルが日本的ないじめにもつながっていきます。そしてこの感覚で非常につらい思いをすることが多いのが発達障がい者、特にアスペルガーの人たちになります。(長所は短所、短所は長所。何事もどちらか一方だけということはありませんね)

さて、この「あいまいさ」は日本に非常に強い感覚ですが、もう少しそのあいまいさの両極端が意識化されて使われると、本音と建前の使い分けになり、これはどこの社会にもあるようです。言葉に二重の意味を持たせて、お互いの本音を探り合いながら妥協点を求め、関係調整を交渉によって図るやり方です。「嘘」もこの言葉の二重化によって可能になります。つまり「話していること」と「本当のこと」が食い違っていて、その食い違いを利用して自分の利益を確保しようとするのが「悪意のある嘘」だからです。また韓ドラの例で説明したように、「善意の嘘」もあります。こちらも事実とは異なることを相手に話すからです。

 

事実とは違うことを意識的に言う、という形の上では善意の嘘も悪意の嘘も同じです。違うのはそれが「相手のために」と考えられているのか、「相手を害しても自分のために」と考えられているのかの違いです。ここに善意の嘘が悪意の嘘として相手に理解されてしまって厳しい関係を生んでしまう秘密があります。

今度は中国漢民族の人に良くみられる感覚と日本の人に良くみられる感覚のズレを例に、このことを説明してみましょう。

みなさんは友達に食事を招待されて、自分のために作ってくれた料理を食べることがあると思います。その時、食べたその料理がすごくまずかったらどうするでしょうか。友達から「どう?お口に合います?」などと言われたとして、どう答えるでしょうか?「うん、結構おいしいね」とごまかしたり、「うん、ちょっと変わった味ね」などと、あいまいな言い方をしてあまりはっきりとは言わない人が多いのではないでしょうか。「ちょっと塩味がきついかも」みたいなやわらげた表現もあるかもしれません。なぜ本当のことを言わないかと言えば、「自分のためにわざわざ作ってくれた」相手の気持ちを慮って、それを傷つけないようにするからですね。そして実際にはあまりそれ以上食べようとしなかったりする。

これに対して漢族の人たちでしばしばみられるのは、親しい関係であればあるほど、ストレートに「これ、まずいよ!」ということです。日本的には「思いやりのない言葉」に聞こえるかもしれません。でもこれは漢族の人たちの友達関係の中では大事なことと考えられているようです。つまり「友達同士、本当の気持ちで話し合う」ことこそ大事で、それこそが信頼関係の基礎だと考えられているようなのです。善意の嘘も、そういうことを前提に成り立つのでしょう。それで、漢民族の人たちはいつまでたっても日本の人と深い友達になった感覚が得られにくい、といったことも起こるようです。日本では「親しき中にも礼儀あり」で、ストレートに言うことは良くないという感覚がずっと続くからです。(むしろ親しいほど配慮の深さが求められる)

そんな風に相手に対する配慮の仕方が異なると、「善意の嘘」は「悪意の嘘」とか、そこまでいかなくても「不誠実な嘘」と感じられてしまうことにもなります。

これとかなり似た関係が定型発達者とアスペルガー者の間で起こりやすいのですね。定型が相手への配慮の気持ちも含めてストレートに言わないことが、アスペルガー者からすると誤魔化しているとか嘘をついていると感じられてしまう。アスペルガー者からすれば本当に思っていることを嘘をつかずに正直に述べていることが定型発達者からは「相手を傷つけるひどい行為だ」と思われてしまう。

 

まとめましょう。ここで同じ言い方を「嘘」と感じるか、「思いやり」と感じるかは、その言葉を悪意あるものとして感じるか、善意でのことと感じるかによって変わります。善意と感じるか悪意と感じるかは、その人が人との関係で相手にどういう配慮が必要と考えているかによって変わります。その配慮の仕方の常識が異なるとき、一方が善意でついた嘘(=思いやりの行為)が、相手にとっては悪意ある行為となってその人を傷つけることになります。ディスコミュニケーション現象の典型的な例の一つです。

問題は「常識」というのはもう空気のようなもので、そういう「常識」を自分が持っていることに気づきにくいですし、さらにいえば「自分とは全く違う常識もある」ということ、そしてその常識もその人にとっては大事なもので、頭から否定してはならない、ということに気づくことがそう簡単ではないということです。それがむつかしいばかりに、「こんな常識もわからないなんて許せない」という強い感情的な反応が出てしまいがちになり、不必要に関係を悪くしていく原因となります。

「聖なる偽り」が「聖なる」と感じられるか、「身勝手な言葉」と感じられるか、そのずれがもたらす結果は悲劇的なものとなりやすく、だからそのずれを調整する道を探ることはとても大事なはずです。定型発達者と発達障がい者、とくにアスペルガー者との間にも同じ問題が横たわっていて、その問題の解決が「共生」にとって決して欠かすことのできない重要な課題なのだと思います。

 

※ やくざ屋さんが親分や兄貴分の代わりに自分が犯人だと名乗って罪を背負う、とか、家族や友達の犯した罪を自分がかぶって嘘をつく、というような例はないではなく、冤罪の原因のひとつにもなっていますが、これは別に親分や兄貴分、家族や友達に対して嘘をついているわけではなく、警察に対して嘘を言っているので話が違いますし。

※※ 最近は世の中が混乱する中で、はっきりとした物言いが求められる傾向が強まっています。日本の社会は歴史的に見てどうも周期的にそういう時期を迎えるように思うのですが、その時期が過ぎるとまた事前調整優位の関係に落ち着いていくようです。日本語が主語をあいまいにしたり、主張の結論を最後まで明らかにしないようにできる構造を持っているように、このスタイルは相当根深く私たちの感覚に根付いていることを、海外で暮らしたりすれば身にしみて感じます。また英語などで論文を書いたり論文審査でコメントを書いたりする時に、人文系の論文の場合そういう「まず主張を明確にする」というスタイルが日本語の書き方ではなじみが薄いことにも気づきます。比較的自然科学的なスタイル(主張を明確にして議論するスタイル)の心理学論文を書く時にも、概念の使い方などにそういうあいまいさを残した方が「含蓄があって」、単純な議論よりよほどよく感じることもあって、その違いの根深さを感じます。複雑な人間の事をあまりに単純に割り切った形で分析するような議論への違和感も強く残ります。

※※※ 有名なのは十八条憲法の「以和為貴(和をもって貴しとなす)」ですし、また「日本」という概念が初めて成立し始めたその当時、日本を「大和」と漢字で表したのも象徴的なことでしょう。ちょっと趣味的になりますが、大陸や朝鮮半島では日本の事をもともとは「倭」と呼び、朝鮮半島では李氏朝鮮時代もそう呼ばれていたようです。「倭」も「和」もおなじ「ワ」と今は読まれていますが、もともと中国北方の古代音では倭は「ヰ」で「ワ」ではなかったところ、倭国の倭は中国南方の方での和の呉音「ワ」と読むべきだ(つまり倭国はその後の大和政権とつながっているのだ)ということを日本の使者が主張したので「倭」=「ワ」=「和」という解釈が中国でも受け入れられたという説もあるようです。いずれにせよその後日本的な精神の神髄のようにも言われてきた「以和為貴」は、見ての通り漢文で、もともと漢文では17条憲法が書かれた書かれた時代(中国では隋王朝)よりはるか昔、戦国期から漢代にかけて成立した論語の《学而第一の12》の言葉、「有子曰:“礼之用,和為贵.先王之道,斯為美;小大由之.有所不行,知和而和,不以礼節之,亦不可行也.」から来ていると考えられます。儒教では「礼」という形式の実践こそが社会秩序の根幹であるという強い考えがありますが、ここではそれを用いるときには「和」が大事だと言い、その点では「礼などと固いこと言わずに仲良くしましょう」という主張のようにも見えます。そうするとなんとなく日本の感覚と同じじゃないと思えるかもしれませんが、実際には後半がとても効いていて、「和」を大事にとは言っても、「礼」によってそれをコントロールしないといかんのだ、ともくぎを刺しています。日本で広がった儒教はこの後半の厳しい感覚が消えていくのですね。ある意味換骨奪胎、言葉だけ同じものを使いながら日本社会の感覚に合わせた大きな改変です。ですから両者を同じ感覚としてとらえてしまうと、かなり間違いになります。関係調整の感覚が歴史的に見てお互いに相当違うのです。

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