2021.01.30
障がいを集団のレベルで考える
前回の「障がいには意味がある?」では、最後のところで多様性を持った集団の方が、環境の変化に対応する多くの可能性を持っているために、有利になるという考え方について書きました。発達障がいについてもそういう視点から見ることが大事だということになります。
実際知的な遅れを伴わない発達障がいの傾向を持つ方たちは、職人さんや技術職や研究職などの専門職では活躍できる方たちが少なからずいるように思います。お医者さんにも多いよね、ということを知り合いの医学者の方とお話したこともあります。法律家とも直接間接に結構お付き合いがありますが、そういう職業などもそんな感じがしますね。
私自身も診断は出してもらえないでしょうが、子どものころからのことや大人になってからも事務的なミスの多さなどを考えると、結構ADHD的な要素を強く持っているように感じています。まあ発達障がいの多くは「スペクトラム」で、明確な境目はないわけですから、だれもが多かれ少なかれそれぞれの傾向を持っているというふうにも考えられるとも言えますが、私は診断にまでは至らなくてもADHD系が強い、という感じでしょうか。「新しい考え方に挑戦するのが好き」というところも冒険心が強いADHD系の特徴かもしれません。
また自閉系の特性は、そういう「一つの道を究める」とか、「徹底して理屈で考えようとする」みたいなところで生きるように思います。アインシュタインなどがよく引き合いに出されると思いますが、そういう例を考えると、人類にとって欠かせない方たち、ということができるでしょう。
でも、たとえば重い知的な障がいを伴うような場合は同じような話が成り立つのでしょうか?
私自身が直接間接に見聞きしたことから考えれば、たとえばK君が小学生時代のことを思い起こしても、同じ学級や学校に彼が在籍し、一緒に「暮らす」ことによって、周囲の子どもたちに優しさが育っていくということも感じました。
人間同士いがみあったり殺しあったりと言う事もなくなりませんが、でもたとえばチンパンジーなどと比べても、「協力し合う」「助け合う」という人間の能力は比較にならないほど発達しています。そうだからこそ、人間の社会はここまで発達してきているわけです(※)。2歳の女の子が、他の二人の男の子がおもちゃの取り合いで喧嘩になっているのを見て、自分の持っていたおもちゃをすっと差し出すのを観察したことがありますが、人間はほんとに自然にそういうことをするやさしい力を持っているのですね。
ただ、人間社会を成り立たせる大事な力の一つであるそういうやさしさ、困っている人に手助けをする力は、やはり「育っていく」ものであるとも言え、障がいのある子が身近にいて一緒に暮らしているという状況は、そういう潜在的な優しさを引き出して伸ばしていくうえでとても大事な環境なのだろうと思います。それは直接にはその障がい児が助けられると言う事ですが、しかしそこで育つ優しさはその後その子が大人になって生きていくうえで、社会を成り立たせる大事な力となるはずです。
また、これもいろんなケースがあるので一概には言えないのですが、非常に重い知的な障がいを持つお子さんと生活している家族が、とてもおだやかで幸せそうに見える、ということも聞きます。これは想像ですが、「能力」の大きさによって人の価値を測る社会の中では見失われてしまう「人が生きていること自体の価値」という、もっと根源的なものに足場を置いて一緒に暮らす中で、そういう幸せが生み出されるのではないかと言う気がします。(もちろん逆の悲劇的なケースもたくさんあるわけですが)
そういうふうに、周りの人たちの「やさしさ」を引き出してくれるという大きな心理的・社会的な働きがありそうと言う事のほかに、生物学的に考えても、集団が一定程度の自閉傾向の人たちを必要としているのであれば(※※)、集団遺伝学的に考えれば、その中にはその傾向がとても強く出る場合も緩やかに出る場合も当然の結果として生じるのだとも考えられます。
そういう風に考えると、単に個人のレベルで「やさしさの引き出す」という大切な力を持っているというだけではなく、集団的に考えてもそういういろんなバランスの自閉的な傾向の人が生まれることに大事な意味があるということになるのだと思います。
※ 海外の知らない場所で知らない人たちの行きかう中を歩きながら、まずいきなり攻撃されたり殺されたりするという恐怖を味わわずに旅ができる、ということについて、「これはすごいことだなあ」と思ったことがあります。多分何を極端な話を、思われると思いますが、なぜならこれがチンパンジーの社会などになれば、違う群れに紛れ込んでしまったらまず激しく攻撃されて生きていられない可能性が高いからです。知り合いのチンパンジーの研究者の方が目撃された話を直接聞いたことがありますが、子どもを抱えて新しい群れにお母さんが入ろうとしたところ、その子は殺されて食べられてしまったそうです。そういう厳しい関係の中で生きているのがチンパンジーなのです。人間の社会ではそれはあったとしても「異常なこと」と考えられるでしょう。そういうことを知ったうえで考えると、人間はその意味で実に平和な社会を作って生きているのだなとしみじみ思ったりするわけです。
※※ もちろんこれは「一定の割合」という条件つきだと考えています。なぜなら周囲に変に流されずに、独自の視点から客観的にものを見る力は集団の維持や発展にとってとても重要ですが、自閉系の方の場合はその特性の結果、周囲の人たちとの協働では苦労することが多くあるので、すべての人が自閉傾向が強くなってしまうと、そもそも集団が成り立ちにくくなるだろうからです。その意味で「群れる」ことが好きな(笑)定型発達者がやはり多くいることが、自閉傾向の人が活躍するための条件だろうと思います。
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
- 自閉の子の絵に感じるもうひとつの世界
- 発達心理学会で感じた変化
- 落語の「間」と関係調整
- 支援のミソは「葛藤の調整」。向かう先は「幸福」。
- 定型は共感性に乏しいという話が共感される話
- 大事なのは「そうなる過程」
- 今年もよろしくお願いします
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