2021.04.01
発達障がい者が否定的にみられやすい理由(1)平等への意識の形成
前回の続きで書き始めたらちょっと説明が長くなったので、2回に分けて書かせていただきます。
「お互いの違いを認め、多様性を大事にしながら共生する社会を作っていこう」というスローガンに正面から反対する人は今ではあまり多くないだろうと思います。けれども何事も言うは易し行うは難しで、なかなかそれがうまくはいかず、結局お互いに相手を否定し合い、自分に同調しないものは排除しようとするような力もなくなることがありません。
そうなるにはそれなりの理由がある、と私は考えます。その仕組みの理解が伴わなければ、そういう問題の解決やあるいは少なくとも軽減はむつかしいはずです。
実際、発達障がいの療育支援について考えても、「その子の興味関心を大事に、その子自身を認めて」というような姿勢を強調すれば、必ず「そんなこと言ったって、世の中はそんな風にその子を扱ってくれないのだから、周りに適応できるようにしていかなければならない」という反発の議論や、議論まで行かなくても感覚は常に生まれます。「多様性とか共生とかきれいごとを言っても意味がない」といった意見ですね。
さらに身近に一緒に生活する人として発達障がい者がいる場合、その葛藤は一層大きくなります。発達障がいの特性からくるその人(子)の生き方をそのまままるごと肯定してしまったら、自分がしんどくて生きていけない、という状況にも陥りやすいからです。今度は建て前としての共生どうこうの問題をはるかに超えて、「このままの自分が生きられるかどうか」のシビアな問題にもなってきます。仕事として療育支援を行っている立場なら、仕事が終わればその葛藤から逃れることができますが、同じ生活者である場合は逃れる場がありません。
そういうわけですから、たとえば保護者の方からお子さんに対する対応を相談されて、「お子さんの発達状態に合わせて、この子の特性はそういうものとして受け止めて、この子の興味関心を大事に」みたいなサジェスチョンをしたとして、それこそ建前では「はいわかりました」ということになったとしても、本音では「そんなきれいごと言われたって、私のこのしんどさはどうしてくれるの?」となって終わり、ということも起こりえます。
実際保護者の方はたくさんつらい思いも抱えられるわけですね。この子をそのまま受け入れろ、と言われたって、どうしても受け入れきれない気持ち、あるいは体といってもいいかもしれませんが、そういうものに直面してしまうのです。「頭ではわかっても、体が……」
なぜそうなるのか、ということについて、たくさんの可能性を考えてみる必要がありますが、ここでは「人にとって対等とは?」という問題から考えてみたいと思います。
人が他の人と、不完全ではあってもある程度理解し合えるのは、理解の仕方に共通性を持っているからです。たとえば「kuruma」という音を二人の人が聞いたときにどちらも「車」を思い浮かべる。そしてそこで思い浮かべる車はだいたいはおなじようなもの。そういう言語の仕組みがあるので、会話が意味あるものとして成立します。「海でイワシを釣ったんだ」と相手に話したら、「イワシ」ということばで相手が「クジラ」を思い浮かべたとしたら、ぜんぜんコミュニケーションが成り立ちませんよね。そういうことはないわけです。
もちろん誤解とかは常に起こりうることですが、会話分析の研究が追及しているように、そういう誤解が生じたときにはそれを調整する仕組みを会話の構造が持っています。そうやって調整のシステムも含めて、人はほかの人と理解しあえるようになっています。
また、人と人との間では利害の対立がよく起こります。たとえば1歳児の観察をしていれば、おもちゃの取り合いとかはよく見る光景です。チンパンジーとかなら、そういう利害の対立が起こった時には、あらかじめ決められている「順位」で解決します。上の者が有無を言わさずそれを獲得し、下の者はそれに従うという仕組み(順位制)を作っています。
もちろん人間の場合はそんなに単純ではないわけです。実はこの問題が私の修論研究のテーマだったのですが、子どもはやがて2歳ごろにもなると、有無を言わさず相手のものを取り上げる、ということをしなくなってきます。そして「貸して」とお願いしたり、交換を提案したり、お互いの意図の調整を盛んにし始めるのですね。
この言葉も使った意図の調整というのは人間が協力して何かを進めていくときに不可欠の仕組みです。通常の社会生活はこの意図の調整によって行われますが、それに失敗すると、暴力的に相手を従わせようとすることも起こります。もちろん大人でも世の中を見ればそういう例は今もいくらでも見ることができます。
そういう力による上下関係で問題を解決しない、あるいはお互いに意図を理解して、お互いに納得し合いながら関係を調整するために発明された大事な仕組み、それが人間のルールというものです。
人間以外の動物にもルールはあります。たとえば順位というものも一つのルールですが、それは生得的な行動の仕組みによって成り立っています。チンパンジーの近縁にボノボという種がいますが、この種では順位で問題を解決するより、平等に分かち合う方向に進化しています。この違いは後天的に学習されたものというより、やはり遺伝的に方向づけられた行動の仕組みによるものと考えられます。(だから同じ種であれば、異なる集団間でも同じ仕組みになる)
その先に狩猟採集民の社会が成立していきます。前回少し紹介した高田明さんの研究対象集団の一つグイ・ガナ(昔でいうブッシュマン)の人たちはその狩猟採集民の文化的な生き方を残していると考えられているのですが、食料にしてもなんにしても「平等に分かち合う」ことをものすごく重視する生き方をされているようです。
その後、社会が複雑になると、上下関係が改めて大きな力を持っていきます。日本でいえば弥生時代以降の大型の墳墓の形成はあきらかに社会のなかにそういう支配=被支配の関係が強まったことを表していますし、埋葬品が質量ともに人によって大きく異なってくるのは、人々の間に資源の不平等な配分が生じていることを示しています。そして現代社会でも改めてこの貧富の階層差の拡大が、社会の不安定化の重要な要因として問題になってきています。
ただ、そういうかたちでの人間の一種の「順位制(階層)」と、チンパンジーなどの順位制には明らかな違いがあります。それは言葉によって関係を調整したり、言葉によってルールを共有したり、という仕組みを人間が持っていて、その力を基盤として「順位制(階層)」もなりたっているということです。
さてそこで言葉の仕組みに戻りましょう。言葉は誰との間でも平等に同じものを表す力が必要です。王様が「車に乗りたい」といえば、自転車をもって言ってはなりません。王様にとっての車は家来にとっても車なのです。同じものを同じような言葉で共通に理解できる、というところでは平等なのですね。
論理や数学という人間に特徴的な知的な思考の仕組みも平等です。王様にとって1+1=2であるように、家来にとっても1+1はやはり2で、3ではありません。ガリレオが地動説を責められて宗教裁判にかけられたときに「それでも地球は回っている」とつぶやいたという話がありますが、そういう「科学的な真理」は権威や権力によっても変わることはありません。理性の働きによって誰にでも平等に開かれるものというのが科学の理念です。
古代から中世にかけては、「身分」というものが絶対的なものとしてあって、身分によって権利が異なりました。その点で人々は生まれながらにして不平等の中で生きていて、それに逆らうことは許されませんでした。しかしそのような不平等も単純に力づくで押し付けられたものではありません。ちゃんとそういう不平等が「正しいことなのだ」という思想がついて回ります。たとえば東アジアでその代表的な思想が「儒教」になります。儒教はそういう社会の不平等な関係が大事なのだということを人々に納得させるための思想でもあります。
つまり不平等の社会を安定させるためにも、人間は言葉やそれを使った思想によって、人々を納得させる必要があったわけです。単純な暴力的支配とは異なります。
近代はこの「身分」という思想を「人権」という概念で崩しました。人権はすべての人に平等に与えられたものだという新しい思想です。キリスト教では「神の下の平等」という考えがあったようですから、そういうものも当然影響しているはずですし、儒教の系列ではおそらく「大同」という思想が平等な社会を支える理念のひとつだったのでしょう。近代社会の「人権」の考え方はそれをベースに置いて、社会の仕組みを根本から作り直した点が画期的だったことになります。
もちろん現在の社会を見ればわかるように、そのことで資源の平等な配分が実現しているわけではありません。しかし権利の主体としてはあくまで平等なのです。昔の皇帝は「法を超える存在」で「法は士大夫に及ばず」ということばもあったりしましたが、首相でも法を犯せば裁判にかけられる、というのが近代の基本的な考え方です。資源の不平等な配分は、同じ権利を持つ主体の間に能力の違いがあって生まれるもの、という理解で納得させられる思想的な仕組みが作られています(逆に封建社会ではそういう能力論はむしろ薄かったと考えられます。違う権利を持つのはその人のせいではなく、身分のせいなのです)。
「人と同じ」ということと「人と違う」ということは、人間にとってどちらも大事なことですが、「平等」と「上下」という人間関係の問題も常についてまわります。その間をどう調整するかが人間にとってはいつの時代も大きな問題になるわけですが、大まかに見ればこんな風に人間の社会は歴史的には展開してきたと考えられるだろうと思います。
以上の説明を前提として、次回は改めて人間にとっての平等意識の発生ということで、幼児の観察事例から話を始めたいと思います。
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