2019.10.19
R君の積み木(5)「人への関心」とその表現
「R君の積み木」シリーズの第五回目ですが、コミュニケーションの発達を考える上で、かなり興味深い展開が見られたので、その意味を考えるために、最初に少し問題点の整理から入って、そのあとそのエピソードの紹介に進みます。
自閉症の、とくに言語発達も遅れるカナータイプの自閉症の子どもを支援するとき、その子が「人への関心」をどの程度持っているか、という点を評価することがよくあります。
つまり、自閉症の特性として、こんなことがよく言われるわけです。
たとえば目が合いにくい、ということがしばしば指摘されますが、「目は口ほどにものを言い」という風に考えると、これは自閉症の子どもが人の言うことに関心を向けにくいのだ、という風にも理解されています。また呼びかけても無視されたり、遊び方を提案しても見向きもされなかったり拒否されたりすると感じる。子どもの側から働きかけてくるときも、要求はこちらの目も見ずにクレーンでまるで便利な道具として自分が扱われているような印象を持ったり、という感じで、自閉的な子は「自分や自分のやっていること」にしか興味がなく、周りの人には関心がない、という印象を与えやすいわけです。
たしかにその状態を「人への関心」の薄さと表現することもできなくはありません。ただ、そう言い切ってしまうと大事なことが零れ落ちてしまうようにも思うわけです。
たとえば、しばしば私が例として使う話なのですが、集団療育の場面でも、ほかの子どもたちが輪になって歌ったりお遊戯をしたりしているときに、自閉の子がそこに全く関心を示さないように離れたところで一人で遊び続ける、という場面はしばしば見ることができます。そういう時、「ああ、やっぱりこの子はまだ人のやっていることへの関心が生まれないのだな」と思ったりする。
ところがそれからしばらくたつと、家で一人でその歌を歌い始めたりすることがあります。つまり決して関心がない訳でもなく、聞いていないわけでもなく、それなりに気にして聞いているわけです。そしてそれが一人の時に突然出てきたりするのですね。
こういう「全く興味を示さないように見えて、実はかなりよく周囲を観察し、それを理解している」と感じられることはかなりいろんな場面で見られることです。それまで全く話さなかった子どもが、単語を少し言うようになったと思ったら、見る見るうちに二語文まで話すようになったということもあります。平均的な発達では1歳ごろに一語文が出て、それから二語文が出てくるのはさらに半年から1年程度かかります。そういう時間が吹っ飛ばされて二語文が出てくるので、びっくりなのですね。これも「自分の中で人を観察しながらずっとため込んできたものを、何かのきっかけで急に自分から使い始める」という感じにとらえるとわかりやすいです。
お母さんがいてもいなくても平気、と見えていた自閉の子も、ある段階でお母さんの姿が見えないと不安そうに一生懸命探し出す、といったこともよく見られることです。特に言語が獲得されるときにそういう行動パターンがよく見られはじめる印象もあります。ここでも自閉の子が人への関心がない、という話とは正反対です。
にもかかわらず、やはり上に書いたように、どうしても「人への関心が薄い」と感じさせられる場面にも多く出会うわけです。一体この矛盾したように見える姿は何を意味しているのでしょうか。
ひとつの考え方はこういうものでしょう。
自閉の子も定型の子と基本的には同じ道筋で発達するのだけれど、人への関心が定型より薄いために、人とのかかわりで起こる発達がどうしてもその分遅れてしまうのだ。けれども、薄いかかわりも積み重ねれば進んでいくので、ゆっくりと発達することは変わりない。
これは言ってみれば「定型発達」から定型の持つ能力の一部を弱めると「発達障がい」になるという定型基準の発想での理解になります。でもどうもそういう見方では実態としての自閉系の方たちのことを私はうまく理解できないのです。言語発達などは平均又はそれ以上の発達をされるアスペルガー系の方たちのことなども、やはり「人への関心が薄い」と感じさせられる場合もありますけれど、逆に大変に強いと感じさせられることもありますし、その方たちの発達過程を考えても、上の定型基準の発想ではうまくとらえきれません。
そこで少し視点を変えてみましょう。ここまでは「人への関心が薄い」という視点で見てみました。これを「本当は存在している関心を、定型発達者の側が読み取れていない」と考えてみたらどうなるでしょう?上の矛盾したように見える話はこれでかなり説明可能になってしまいます。
仮にそうだとすれば、次の問題は「ではなぜ定型発達者の側がそれを読み取れないのか」ということになります。
ここで過去記事の「R君の積み木(4)」や「当事者による療育支援の意義」などをお読みくださった方は、もしかすると気づかれることがあるかもしれません。そうです。定型にわかるような「表現」を自閉系の人たちはあまり使わない(あるいはあまり使えない、使おうとしない)からだという理解が成り立つ可能性があるのです。
というところでエピソードに入ります。
先日石黒先生からR君の大変面白いふるまい方を教えていただきました。R君は(4)でも書いたように、このところ人への関心が目に見える形で出始め、そして自分から人へかかわろうとする姿が、要求という形で出てくるようになっています。その要求の仕方が大変に興味深いのです。
R君はこのところ積み木への興味がずっと続いていたわけですが、教室にやってくると、その積み木を取ってほしいと先生たちに要求するようにもなっています。その表現がなんとも面白く、たとえば机の上に積み木の箱があったとして、それを取ってほしい時、彼は手招きをするのだそうです。
と書くと、通常は人を見て、その人を手招きする、と想像しますよね。そうではありません。積み木を見て(人を見ず)、積み木に手招きをするのだそうです。さらに私たちが人を手招きするときに手首から上を振って相手に示すのとは違って、箱がこちらに向かって動くときにたどるルートを手でなぞるような感じだそうです。
その姿を見て、周囲の大人は「R君は積み木に魔法をかけて呼び寄せようとしている」とは理解せず、「自分(大人)に積み木を取ってと要求している」という表現として理解して、それを取ってあげます。スキャフォールディングです。その結果R君の意図は実現したことになりますが、第三者的にみていれば、とても不思議なコミュニケーションですよね。
前回書いたように、今年の3月ごろにはクレーンでの要求が見られていたようですが、このR君の「手招き」はそれと比べて次のような重要な進歩があると考えられます。
クレーンというのは欲しいものがある時、相手の人の手をもって(やはり目を見ることはなく)、その手を欲しいものがあるところに持っていく、といった形の要求の仕方です。これに対して言語発達のほぼ同一レベルの子どもの場合、通常は「大人の目を見て声を出すなどして注意をひく」⇒「取ってほしいものを見て、声を出したり指差しをして大人の注意をそちらに向ける」という形で要求が行われます。
違いは明確です。クレーンの場合、声や視線の動きや指差しなどで「相手の注意をひく」「相手の注意を欲しいものに向ける」という「相手の注意(志向性※)」への働きかけが全く存在せず、直接相手の体を動かす、という形になっているわけです。つまり「相手の意志への働きかけ」が存在しないわけですね。そのため、クレーンをされた側はなにか、意志のない物のように扱われた気分になります。
この点でいうと、R君の「手招き」はクレーンと通常の要求のちょうど半分くらいの状態であると考えられるようになります。つまり、どこまで意図的かはまだ微妙ですが、「手招き」という形で大人に「合図」を送っています。これは大人の手を動かすのとは違い、結果的に「合図」によって相手の注意をひき、要求をする、という働きをする点でクレーンとは異なってきています。そこまで進歩していると考えられるわけです。
ただしそれで定型的な発達と同じになっているわけでもありません。彼の視線の動きを見ると、大人の目を見ているわけではないわけです。つまり自分の視線を大人に向けて、大人の視線を欲しいものに向けて誘導するという意味での大人の意図(志向性)への働きかけは存在しない、ということになります(※※)。
積み木の箱に「手招き」をする、という不思議な形ではありますが、それが大人には要求の意味を持ったことは間違いありません。そして大人がそれを取ってくれたことでR君は満足(納得)し、それが繰り返されるわけですから、本人にとっても要求の意味を持ったことはたぶん間違いありません。ですから、ここでそれが「不思議な形」と言えるのは、ようするに要求の意味を実質的に持っているにもかかわらず、それに見合った表現(大人の顔を見ながら積み木に手招きするなど)が生み出されていないということなのだ、というふうに言えます。
定型発達者とアスペルガー者の間で、定型から見たときにアスペルガー者の気持ちとその表現に大きなずれがあって困惑する、という事態がかなり見られるのですが(逆に定型の表現がアスペルガー者に理解しにくいのと裏表とも考えられます)、その最も初歩的な形がここにも見られるのだ、と考える可能性がここで出てくることにもなります。
※ 志向性(intentionality)という言葉は現象学的な研究でよく使われ、そのルートで心理学でも使われるようになっていますが、intention が意向、意図、目的、意志などと訳されるように、人の精神が何か(対象)に向かっている、という性質を表しています。現象学では「意識は常になにものかについての意識である」といった言い方にも見られるように、なにものか(対象)に向かっているものである、ということが意識の本質的な姿と考えられます。
もう少し人間の行動で考えれば、たとえば何かを見る、というのはその見られた対象に志向性を向けていることになりますし、音を聞く、というのは音に志向性が向けられているということです。注意(attention)と言ってもいいですね。相手と見つめあう、というのは自分の志向性が相手に向けられ、相手の志向性が自分に向けられている状態で、お互いの志向性が重なった状態になっています。
この「志向性」を持つということ(あるいは志向性を持つように立ち現われるということ)が精神を持った人と、精神を持たない単なる物体の性格を決定的に分けるポイントとなります。人は物を見(志向性を向ける)ますが、物が人を見ることはありません。
つまり、人と人とのかかわりというのは、この自分と他者と、お互いの志向性の絡み合いとして成立することになります。また人を理解するということは、相手の志向性の在り方を自分の志向性と絡ませて理解することだということにもなります。そのように心理学では志向性が絡まりあうように成立する心理的な世界をやはり現象学の影響で「間主観的世界」と言い、そのように他者の志向性と絡ませながら状況を理解する人の心理の性格を「間主観性intersubjectivity」と呼びます。言葉はそういう間主観的な世界を自分と他者が共有するためのツールとして機能します。
※※ 少し理屈っぽくなりますが、これは自閉症児の言語発達過程の特徴を考えるときに、かなり重要なポイントである可能性があります。
というのは、言語発達はあるもの(能記=記号)で別のもの(所期=意味)を表すという、記号的な関係を使って、お互いの注意(志向性)を調整する、という形が形成され、展開していく過程として考えられるのですが、R君の場合はこのうち「記号的な関係」の発達の方が先行しているような印象があり、「手招き=能記」&「積み木の獲得=所期」に近いような関係が先に進み、それに比べて注意の調整の方がかなり独特の動きをしている感じがするのです。
- 自閉的生き方と「ことば」2
- 自閉的生き方と「ことば」1
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
- 自閉の子の絵に感じるもうひとつの世界
- 発達心理学会で感じた変化
- 落語の「間」と関係調整
- 支援のミソは「葛藤の調整」。向かう先は「幸福」。
- 定型は共感性に乏しいという話が共感される話
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