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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

    ブログ総目次(リンク)はこちらからご覧いただけます。

2019.09.02

「お手伝い」の意味

 
 
ある事例検討会で、家庭にいろいろな困難を抱え、お母さんも子どもの将来に大きな不安を持たざるを得ない状態に置かれているケースが取り上げられました。
 
どんな対応が必要かをいろいろみんなで議論する中で、「子どもに家の手伝いを積極的にさせてみてはどうか」ということがひとつのアイディアとして出てきました。そのアイディアを聞いて、私は直観的に「それはいい」と思いましたし、また参加者の多くの方もそう感じられたようです。
 
お手伝いにはいろんな意味があります。実際に生きていくうえで、料理、洗濯、掃除など、生活のいろいろなことを自分の力でできるようになることは大事ですので、お手伝いを通してその力を身に着けることができます。
 
またお手伝いを通して、「家族の一員としてそこにいる」という充実感も得ることができます。また「家族の中で、自分はちゃんと役割を果たしている」という感覚にもそれがつながります。親の立場から見れば、それは「この子が自分の力で家族のためにしっかり役割を果たせている」ことを実感できることにもなります。
 
特にこの後者の意味が大きいのではないかと私は思ったのですね。つまり、「人の中で生きていくこと」「人の中で自分の役割を見出し、自分の意味を実感していくこと」がそこで実現できると思うからです。
 
これがたとえば「勉強する」ということだとどうでしょう?
 

親「ちゃんと勉強しなさい!」
子「なんで?」
親「あなたのためでしょう!」

 
と、「あなた個人のため」というところで終わってしまいます。だとすると、子どもはこうも言えることになります。
 

子「別に自分はそんなに勉強しなくてもいい」

 
自分のためなら別に自分が望まなければする必要もないわけです。
 
でも家事のように「ほかの人のためにしなければならない」ということになると話は変わります。そこには「責任」がかかわってきます。責任は人が人と一緒に生きるために必要なことです。
 
しかも「人のためにする」ことによって、してもらった人から「感謝される」ということが起こります。人から感謝される自分であること、人に頼られる自分であること、人から認めてもらえる自分であることは、人が自分の人生に意味を感じられるための一番基本にあることではないか、と私は思うのですが、「お手伝い」はそのことを身近に体験できるとてもいい行動だと考えられます。
 
人間というのはとても社会性を発達させて、これだけ複雑な社会を作って生きている動物です。そのような複雑な社会を作り上げるうえで重要な力となったのは、そのひとつに「人のために(も)生きる」というふるまい方を大きく発達させたことがあると思います。それは複雑な社会を作ってお互いに協力し合って生きる形を可能にしてきました。
 
そしてほかの人が「自分のためにやってくれる」ことについて、「感謝する」心が生まれています。この感謝の気持ちが示されることで、相手の人は自分のやったことに意味があったと感じられるようになり、喜びになります。少し大げさに言えば、それが「自分が生きていくことの意味」にもつながるわけです。
 
生きていることが自分のためだけなのだと思えてしまうと、なかなか自分が生きていることに価値を感じられなくなるものです。逆に自分が生きていることが人のためになると思えば、自分の価値が高まるように感じられることになります。人間はどうもそういう心の仕組みを進化の中で作り上げてきたようです。
 
言っていれば人はお互いにお互いの価値を高めあうような、そんな力をもって生きているのだと言えます。
 
「お手伝い」ということは、そういう人間の生きる価値、幸せに直接つながるものでしょう。それは障がいのあるなしに関係ありません(※)。だから、その「お手伝いをさせる」というアイディアは、人が人として生きることの基本に足場を置くもので、とても優れたものに感じられたのだと思います。
 
 
※ ただし、最重度の知的障がいを持たれていて、そもそも「他者からの評価」を感じ取ることが困難な場合には、その人自身については少し違った側面から問題を考える必要があると思います。他方、周囲でその人をケアする立場の方にとっては、同じことが言えるでしょう。

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コメント欄

  1. 153 香川 栗林南校 153 香川 栗林南校

    当事者が個人的な体験でコメントすると、お手伝いが幸福感につながった記憶はないんです。

    小さいころ、お菓子を買ってきてと、知り合いの家に母とお邪魔したときに頼まれました。
    千円を渡されて、いつもよりたくさん買えることにウキウキして商店に行きました。
    いつもは買えないビッグワンガム(100円)やら、アニメのキャラクターのおまけがついたお菓子をいっぱい買っていきました。
    今なら分かりますけどね、ポテトチップスやポッキーとかがいいのは。
    「そういうんじゃないんよ」と言われて、でも正解は分からなくて。
    就学前の思い出です。

    カレー粉を買ってきてと言われて、家を出てすぐにお金をなくしたり、
    写真屋にネガを持って行ったけど、サイズとか聞かれても分からなかったり、
    とにかく親の想定や僕の想像を超えたことが起こるので楽しくなかったです。

    食事ができたからテーブルに運ぶ。どの皿にも均等にから揚げが乗っているか気になって数えると「いじきたない」と怒られる。
    掃除や片づけを命じられたら、仕上がりが悪いとなじられる。
    ここら辺が小学時代の思い出ですね。

    中学に上がると、不在の親の代わりを命じられます。
    お昼までにこれをしていて、郵便局へ行ってこうして。
    そもそも忘れてしまいますから成功しません。
    親が帰ってから急いで出かけたり、ごまかしたり。

    お手伝いは感謝されないもの。
    逆に自分から言い出したことは、相手の基準のない「気の利いたこと」ということに気づいて、先回りすることで回避しています。

  2. やまもと やまもと

    コメントありがとうございます。

    > 当事者が個人的な体験でコメントすると、お手伝いが幸福感につながった記憶はないんです。

    こういうお話を聞きたかったです。

    定型が普通と思っていることが、当事者の方と簡単には共有されない。そしてその事に気づかないまま勝手な思い込みで議論を進めることで、どんどん話が当事者の方の素朴な体験、感覚を離れて、定型的な解釈でおかしな物語が作られていくことがとても多く感じるからです。

    ここで係れたことは「自分がお手伝いとしてやったつもりのことが、相手にはお手伝いとして認められなかったから」なのでしょうか?

    言い方を変えると、「感謝される」のであれば、幸福感は得られたと思いますか?

    それともそもそも人とのやりとりで幸福感を感じることが少ない、またはほぼないという意味ですか?

    私としては前者かなと想像はするのですが。

    1. 515 大内雅登 515 大内雅登

      個人名でログインします。
      お手伝いはお手伝いなんです。成功しなかったけど、買い物には行ったという意実は事実ですから。
      誉めると認めるの違いはこの際置いておき、「誉められる」「感謝される」「認められる」と嬉しかっただろうなぁと推察はします。
      でも、例えば写真の現像でサイズが答えられなかったのは確かですから、行きたいという気持ちにはなりません。仮にもう一度、お手伝いとして写真屋に行かされたとしたら「やだなぁ」となります。
      すると、あくまで私の場合は、と断ったうえで、店員とのやり取りやお手伝いにまつわるトラブルを忌避したい気持ちが勝つので、幸福感を十分に味わえないのではないかと思います。
      人とのやり取りという括りで考えると、店員とのやり取りということが言えそうですが、トラブルで括った方が適切な気がします。
      想定できる準備を整えてくれる(または考えろと提示される)とお手伝いはそこまでイヤではないことだったかもしれません。