はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2019.11.03

カナータイプの子とのコミュニケーション(2)物の扱い方を見る

まず最初に私が自閉の子を見るときの一般的な構えから書いてみますね。

一般的な形での子どもへの関わりが難しいカナータイプの子どもと接するときは、私の場合はちょっとまず距離をとってその子のやっていることをしばらく見続けるのが普通です。

 

相手の世界にいきなり踏み込まず、こちらからいきなり働きかけることもせず、その人がやっていることをまず見つめる、というスタンスは、知的遅れの有無に関わらず自閉系の人とコミュニケーションを採ろうとする時の基本スタイルなのかなと感じています。

 

特に私の場合はどちらかというと人に積極的に関わっていこうとすることも多いタイプなので、自戒の意味も込めてそうしているのかもしれません。また、私の場合は直接療育に関わるよりも、療育している様子を見て(観察して)アドバイスをする役割も多かったので、自然とそうなる傾向ができたところもあるでしょう。

とはいえ、それらのことを差し引いて考えて、療育を行う立場で考えても、やはり少し距離をとってその子を見つめることは大事なように思っています。

ではそうやって見つめるといっても、そこでいったい何を見ているのかというと、たとえば積み木の話などを例に思いつくままに書いてみるとこんな感じです。

 

「積み木を横に並べてる」「いろんな色の積み木を並べてる」「一色だけ選んで並べてる」「大きさをそろえてる」「ばらばらに並べてる」「短く並べている」「まっすぐ並べている」「曲がって並べている」「いろんな積み木を入れ替えながら並べている」「色の並びになにか順序がありそう」「一本だけ並べている」「二本作っている」「きれいに並べている」「かなり乱雑な感じ」「上に積み上げている」「崩れた」「崩した」「また積んだ」「上から落としている」「投げた」「ずっと続けている」「すぐにやめた」「間をおいてまたやりだした」「縦にも横にも積んでいる」「坂を転がして、行方をじっと見つめている」「怒ってる」「笑ってる」「ごろんと横になった」「走って○○の方に行った」「戻ってきた」「ズレた積み木を並べなおしている」「積み木をじっとみつめている」「声を出している」「蹴っ飛ばした」「左手で下の積み木を抑えながら右手で上に積んでいる」「下の積み木をよく見ずに上において崩れている」……

どうでしょうか?結構素朴なことですよね。とにかく、シンプルに「○○している」ことを見ていきます。(これだけでなく、人との関係ももちろん見るのですが、そこはまた回を改めます。)

そこでそんなシンプルな子どもの行動でも、できるだけ細かくみられるようになるのもひとつの大きな進歩です。たとえば同じ積み木をつかむときにも、積み木の大きさにもよりますが、つまむようにつかんでいるか、手のひらでぐっとつかむのか、手のひらの親指側でつかむのか、小指に寄った側でつかむのか、といったことも場合によって運動にかかわる神経系の発達を推定するうえで意味のある情報になります。

 

一般的には小指の側(尺側:しゃくそく)で手づかみ⇒親指の側(橈側:とうそく)で手づかみ⇒親指と人差し指で挟んで持つ(ピンチと言います)という風につかみ方が進歩します。そういう勉強をしたことがなくても、ふと「あれ?他の子と違う面白いやり方してるな」と気づいたら、見逃さずに記録しておくと、あとから意味が分かることもあります。

積み木の置き方も面白いポイントです。そっと慎重に置くのかバンと乱暴に置くのか、というところで、その子の性格も見えてきます。同じカナータイプの自閉の子でも、そういう性格の違いはとても大きいです。そこは定型にいろんな性格の人がいるのと変わりはありません。

 

また、置き方の違いは、性格だけではなく、理解力の問題につながっている可能性もあります。乱暴に置けば積み木は崩れやすいですよね。そうすると、その時、崩れたあとにどんな様子か、ということがまた見どころになります。別にあんまり気にしていない感じか、それどころか崩れたことを見ているかどうかも分からない感じか、あるいは崩れたことにいら立つか、びっくりするか。

 

これはその子が「自分のやったことの結果」にどれほど注目できる力が育っているか、ということに関係してきます。気にしていない様子なら、まだ「自分の行動」⇒「その結果」の間の因果関係を理解する姿勢が乏しい、ということが考えられます。言い換えると、子どもがどの程度「目的意識」を持って行動しているか、ということを推し量るポイントでもあります。

もしびっくりしたとすれば、「意外だ」ということですから、そうなることを予想してなかったわけですよね。ということは別の予想を持っていた、ということになります。大人でも手品を見せられてびっくりするのは「当然こうなるだろう」と思っていたことが裏切られて、「ありえない」と思えることが起こるからです。ということは、びっくりするときに、子どもは「新たな発見」をしているかもしれません。今まで知らなかったり、気にしなかったことに気づいたわけですから。

 

びっくりしたあとどうするかも興味深いですね。もうそれでやらなくなってしまうのか、びっくりしてもまた挑戦しようとするのか。つまり集中力がどの程度持続するのか、といったこともその子の理解につながります。頑張って挑戦しようとする姿勢が見られれば、その勢いを大事にサポートすることを考えられますし、おっとりした子なら、あまり無理させずにその子のペースで関わることが必要になる場合もあります。

 

こういうの、書き始めるときりがないとも言えますが、今回はこのくらいにしてまたおいおい書いていきましょう。いずれにしても、その行動にどういう意味があるのかはすぐにはわからなくても、経験や知識が増えてくると、その意味に気づくことが増えてきます。そうすると子どもへの「その子にあった」かかわり方もまた見えてきたりします。「丁寧にみる」ということは、そのための一番基本的な作業なのですね。

 

以下、私がそういう風に子どもを見る目を少しずつ養うようになっていった経験についての思い出話です。

 

私がまだ大学院生だったころ、ひよっこの発達相談員として施設のスタッフの皆さんと事例検討会での議論に参加させていただきました。いくら本でピアジェやワロンなどの発達理論を読んだって、現場で生の子どもを見てその子のやっていることを理解できることはありませんでした。検査をやっても、その意味を読み取る力もありません。表面的なことを言えるだけでした。「本当にその子のことを理解して議論に参加できた」とは到底思えない状態でした。結局口先だけの言葉しか言えなかったのです。

 

そういうとき、一番私が勉強になったのは、現場で長くやってこられたスタッフの方たちの子どもを見る目でした。日々の子どもとの一生懸命のやり取りの中で、スタッフの方たちは言ってみれば体で子どもたちをつかんでいます。そして気が付いたその子の振る舞い、気になったことなどを教えてくれます。そんな風にして注目すべき点を学ばせていただけるわけです。

 

たとえばある大ベテランのスタッフの方は、よく「こどもが自分のやったことの結果に注目しているか」ということを問題にされていました。上に書いた話もその延長でのことです。

 

積み木を投げたとして、その投げた先をしっかり見ているか、ただでたらめに放り投げただけかによって、その意味は全然変わってきます。音が鳴るタイプのクーゲルバーンで遊んだとして、たとえば玉の動きを目で追っているか、ぜんぜん気にしていないようすか、玉が出てくるところに期待して待ってみているか、たまたま出てきたら見るだけか、ということで、その子の「因果関係」の理解の仕方について、推定することができます。

 

「私が(あるいは他人が)こうした」ら「こういうことが起こる」という因果関係を、どのくらいのレベルまで理解しているか、ということは、その子の行動の仕方を理解するうえで大事な情報です。そしてその子の理解のレベルにあった対応の仕方がそこから工夫されることになります。

 

ABAなども、言ってみれば「結果」をわかりやすく子どもに提示することで、その子の「大人にとって都合の良い」行動を増やし、「大人にとって都合の悪い」行動を減らすテクニックとしても効果的な手法の一つということになりますが、そこで「何がその子にとってわかりやすい結果になるのか」ということ、つまり何がその子にとって効果的な「強化子(賞/罰・嫌子/好子)」になるのか、を見極めていく作業も、実際はこの子どもの因果関係理解のレベルに左右されるわけですね。3か月の赤ちゃんに「褒めてあげる」ということを強化子として使おうとする人はないでしょう。「褒められる」ことの意味を理解して、それを強化子として受け取れるようになるのはずっと先の因果関係、しかも対人的な理解のある程度のレベルに達している必要があるわけですから。

 

そんなふうに現場の先生が日々の療育支援の実践から注目するポイントには、ほんとに大きな意味を持っているものがたくさんあります。現在私は子どもの社会性発達について、私なりの理論(※)で理解を進めていますが、考えを整理していく時に、そんな風に現場のみなさんから学んだことが大事なベースの一つになっています。というふうに、理論的な問題も含めてすべては子どもをしっかり見ることから始まるのだと私は思っています。

 

もちろんそういう具体的な子どもの動きから読み取れていくものは、因果関係の理解だけではありません。その子の興味の持ち方、興味の持続、興味の移り変わり、困難に出会ったときの工夫の仕方、行動の切り替え方、物の理解のしかたなどなど、いろんな姿がそこから見えてくることになります。一口に言えば、その子がいまどんな風に主体的に生きようとしているのか、何に困難を感じてそれをどう乗り切ろうとしているのかが見えてくるということになります。

 

大げさに言えばその子の生きる世界、意味の世界、「生きざま」がそこで見えてくるので、それを支えるにはどうしたらいいのかを考えることができるようになるわけです。

 

障がいのある子を見るとき、どうしても「○○ができない」というところに目が向きがちになります。でもそこで発想を変えて「この子は何をしようとしているのだろうか?」と、その子の主体的な生き方に目を向けてみると、全然違う、その子自身の可能性がそこから見えてくることになります。そのためには、素朴にその子のやっていることを見つめて、できるだけたくさんのことに気づくことが一番大事な出発点になります。

 

※ 能動=受動の間主観的なやり取りが組み合わさって、二者間のやりとりから第三者的な視点を取り込んだ共同主観的なやりとりの形成に進み、主体と対象とそれらを意味づけ媒介する規範的要素が組み合わさって3歳ごろまでに「拡張された媒介構造=EMS:Expanded Mediational Structure」を構成可能になることが、人間の社会性の基本的な発達の道筋だとする議論です。間主観性の発達、三項関係の成立、社会的参照行動の形成などはいずれもこの議論に組み込まれて理解ができるものです。このEMSは人間の社会行動の基本構造の話になるので、発達に限らず文化の問題や法の問題など、コミュニケーションが問題になるいろんなところに応用して使っていますが、日本語の文献としては「山本登志哉 (2016) おこづかい研究と差の文化心理学 (高橋・山本編 子どもとお金:お小遣いの文化発達心理学、終章、東大出版会)」「山本登志哉 (2015) 文化とは何か、どこにあるのか:対立と共生の心理学、 新曜社」などに説明があります。

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