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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2019.12.13

自己コントロールの話(2)言葉によるコントロール

自己コントロールの話(1)では、フロイトの議論を引き合いに出しながら、自己コントロールの力が個人の中で作られるというより、人との関係の中で生まれる葛藤をベースに育っていくとみた方がよい、ということを書きました。

ただ、自己コントロールでよく問題になる「我慢する力」についても、我慢するのは自分自身なわけですし、やっぱり自己コントロールは自分の中の力なんじゃないか、という疑問がわいても当然だろうと思います。実際自己コントロールは「自分で」自分をコントロールする力と考えられているわけですから、その面も併せて考えていく必要があります。

そこでここでは次のステップとして、人との間で育つ自己コントロールの力が、どうして「自分で」自分をコントロールする力になっていくのか、ということについて、少し考えてみたいと思います。

それを考えるために、人はどうやって自己コントロールをするのか、あるいはなぜ自己コントロールが可能なのか、ということから考えてみる必要があります。

自己コントロールと言っても、体温の調節とか、そういう生理的なレベルでのコントロールということになると、別に人間だけのことではありません。そういう仕組みを体が生まれながらに持っています。けれども療育などで問題になる自己コントロールとは、そのレベルのコントロールではなく、「社会的な場面で必要なコントロール」です。

たとえば集会の時にはみんなと一緒に静かにし、騒いではいけないとか、授業の時は机にちゃんと座っていられるとか、そういうのが自己コントロールの話でよく出てきますが、そういうのは言ってみれば今通用している社会的な決まり事なので、たとえば江戸時代の寺子屋の風景を描いた絵を見れば、おとなしくなんか座ってない子どもたちの様子がよく描かれていて、特に先生(師匠?)がそれで怒る様子もありません。それはそれでOK(あるいは許容範囲)だったわけですね。

この社会的な決まりごとは社会や時代によって変わるもので、生まれながらに備わったものではなく、成長の過程で身に着けていくものです。つまり、子どもが「周りの目」を気にして、それに合うように自分の行動を調整していく、という仕組みが人間では発達していて、その社会の大人たちが作っている「周りの目」に沿った行動をするようになるわけです。

周りの目を気にするようになるのは、一番シンプルな形では新生児のころから見られる「目(のような黒い丸)を見つめる」という行動に見られます。やがて「目が合う」という印象の見つめ方に変わっていき、「見る=見られる」という「見つめあい」の世界が生まれてきます。

少し飛びますが、9か月ごろになると、相手の人が見たものを見る、という三項関係(共同注視)の世界が成立してきますが、この場合は相手の目を見て、その視線の先を読む、という形で自分の行動が相手の行動にコントロールされる世界が生まれます。

さらに1歳ごろになると、社会的参照行動と呼ばれているものが見られ始めます。つまり、自分がそうしていいかどうかわからないときに、お母さんの顔色をうかがうような行動が見られだすのですね。これは自分の行動をコントロールする手掛かりとして、大人の顔色(評価・判断)を利用していることと考えられます。

さらに1歳半ごろから、自分と友達のやり取りの際に、第三者(大人)の視線を気にしだし、そしてやがて2歳から3歳にかけて、大人の承認するやりとりのルールを取り入れて友達とやりとりするようになる、という変化がみられるようになります。このころから社会的ルールにコントロールされる形の基礎ができるわけですね。(※)

 

さて、大人の顔色を窺うというレベルだと、「大人からコントロールされる」という段階を超えていないとも言えます。ではどの辺りから「自分で」自分をコントロールする、という働きがどう生まれてくるかが問題です。

その秘密はまず「指差し」という行動に見られます。

指差しというのは、相手の注意を何かに向けてもらう(注目してもらう)ために行いますよね。その意味では「相手をコントロールする」手段です。でもここで面白いことは、相手に働きかけるその自分の指が、自分にも見えているということです。そこで「独り言」的な指差しという現象が興味深くなります。

この「独り言」的な指差しというのは、ほかの人がいないときに(正確に言うとほかの人がいることに気づいていない状況で)、子どもが何かを指さしている、といった行動のことです。指差しは通常はほかの人に対して何かを伝えようとする行動ですから、その枠にははまらない「不思議」な行動なわけですね。その意味を考えると、その指差しを自分に向けているのだ、ということになります。つまり「うん、これだよ、これ」と自分で自分に話しかけ、確認している行動、と考えられるわけです。

その意味で、自分に対する話しかけ、つまりは「独り言」なわけです。別の言い方をすれば、指差しで自分が自分に働きかけている行動、あるいは自分で自分をコントロールする行動と言えます。

 

記号としての言葉の発達、という視点から見たときには、指差しは言葉の直前の段階にあり、記号としての言葉と同じような働きをし始めていることになります(※※)。そして言葉を話すときにもなにかの「音(声)」を出して相手に意味を伝えるわけですが、その「音」もまた相手にも聞こえるし、自分でも聞こえるわけです(浜田寿美男客員研究員の講義動画「自閉症を考える」第6回も参考にしてください)。

つまり、「言葉=声=音」を出すことで、相手をコントロールすると同時に、自分もその言葉にコントロールされる、という形がここで出来上がっているわけですね。

さあ、そうするとここで「自己コントロール」の仕組みが見えてこないでしょうか。たとえば自分がしょげているときに「頑張ろう」と自分で自分に言い聞かせる。怖くてすくんでいるときに「大丈夫、大丈夫」と自分で自分を励ます。道がわかんなくなった時に「うーんとさ、ここを右に曲がるんじゃなかったっけ?左だったっけ?」と口で、あるいは頭の中で言いながら考えてみる(※※※)。すべて自分の言葉で自分をコントロールする形です。

まとめてみると、最初子どもは大人の顔色をうかがう、といった形で自己コントロールを始めます。次に言葉による他者からのコントロールを経て、自分でも言葉で他人をコントロールするとともに、同時にその言葉で自分をコントロールすることもできるようになる。そういう展開が見えてきます。


ヴィゴツキーという心理学者が人間の精神の発達を「内化(内面化)」のプロセスから考えました。つまり、最初、ほかの人とのやり取りの中で成立してきた言葉(や思考)が、今度は精神の内部で自立する形で「内化」されて新たな形で成立する。そのことで直接他人には見えない、その人の「内面的」な精神の世界が成立するのだという考え方になります。

自己コントロールの成立も、同じ理屈で考えることができるわけですね。その意味でも、「対人関係の中での調整」こそが自己コントロールの足場と考えられるのです。

 

※ 第三者を気にし、その評価に影響されながら行動するような心理的仕組みを私は「三極構造」と呼んでいます。またこの構造が安定し、「大人の評価(あるいは調整方法)」が子どもに取り込まれて規範として作用し、その規範に媒介される形で相互作用が展開する構造をEMS(拡張された媒介構造)と呼び、それを人の社会的行動の最小基本単位として理論化しています。フロイトの「超自我」のような働きが心理的に成立していくわけですが、「自己コントロールの話(1)」にも書いたように、別にこの展開にエディプスコンプレックスなど想定する必要は全くありません。

※※ つまり、言葉は「音」が「意味」を指し示す、という形で「音=記号」と「対象=意味」の間に記号的な関係が成立しているわけですが、指差しの場合は「指」が「対象」を指し示す、という形で「指=記号」と「対象」の間に記号的な関係が作られ始めていると考えられるわけです。ですから指差しの成立は基本的には言語の出現の前提条件が整ったことと考えることが可能になります。

※※※ この声を出して考える時と、頭の中で考えるときの関係も興味深いものです。声を出すときに使う筋肉などの電位を調べてみると、声を出さずに頭で考えているときにも、その「頭の中の声」に該当するような筋肉が小さく活動していることが確かめられるようです。つまり、「声を出して考える」という形が縮まって、「頭の中で考える」という風に発達していくという可能性が高いことがそこから見えてきます。

 

 

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