はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2019.12.23

逆転の発想:笑われる→笑わせる

赤木和重さんが今年「ユーモア的即興から生まれる表現の創発:発達障害・新喜劇・ノリツッコミ」(クリエイツかもがわ」という本を出されました(編著)。

赤木さんについては「子どもに先生役を」で少しだけ紹介させていただきましたが、発達障がい児への支援を、子ども自身の主体的な活動を引き出そうとする視点から考えようとされています。この本もそういう姿勢から、発達障がいに関して面白い実践をされている砂川一茂さんと村上公也さんというお二人の実践の紹介をメインに据えて、音楽療法士の神戸大の岡崎香奈さん、研究所の客員研究員も務めてくださっている奈良女子大の麻生武さんパフォーマンス心理学で活躍されてる筑波大の茂呂雄二さんがコメントや論考で参加されています。

本の紹介についてはいずれ赤木さんご自身からしていただければと思っていますので、ここまでにしますが、砂川さんの「体験新喜劇」という面白い実践について岡崎さんが書かれたコメントの中に、刺激的な内容があったので、そこから思ったことを書いてみたいと思います。

 岡崎さんは私と同じで桂枝雀の大ファンだそうですが、笑う、笑われるという難しい関係について、面白いことを書かれていました。

 枝雀師匠は笑いを緊張と緩和で説明することをよくしていました。話の展開で「あれ?変だな?」という緊張の状態が生まれ、そのあと謎解きがあって、「なあんだ、そんなことだったのか」と、一挙に緊張が解けて安心したときに笑いが起こる、という話です。

 笑う人自身のことを考えると、その通りだと思いますし、思春期の女の子が箸が転んでも可笑しい、等と言われる理由の一部も、体の変化で緊張が高まるのでそれを笑って逃しているのかなとも思ったりします。

 そして笑いのもうひとつ重要なポイントは、笑いは伝染する(ことがある※)、ということです。伝染するということは、笑いは自分だけの問題じゃなくて、人との繋がりにも関係することだということですね。一緒に笑い合う関係は、お互いに緊張を解いて打ち解けた雰囲気を作ります。

 逆にみんなが笑っているのに、自分だけ全然おかしくなかったりすると、なんだか一人取り残された気分にもなるでしょうし、そのときの回りの人たちの振る舞い方次第では、仲間はずれにされたような不快な気持ちになるかもしれません。

 さらに「笑われる」となると、これは普通傷つく体験になります(※※)。

 お笑いの世界、特に漫才の世界ではこの「笑われる」というのをわざとやる訳です。自虐ネタと言われるのもそうですね。で、この辺りが岡崎さんの話になってくるのですが、漫才では、「笑われる」ことをわざとする。つまりそれは受け身ではなく、能動的に「笑わせている」ことでもあります。

 人が生きていくうえで、能動と受動というふたつの形があることの重要性については何度かここでも書いてきましたし、浜田寿美男客員研究員などの方たちも非常に重視されてきたところですが、ここでも「笑われる」という受動と「笑わせる」という能動の違いがとても大きな意味を持ってきます。

 通常は人に「笑われる」というのは、「馬鹿にされる」「辱めを受ける」といった言葉とも結びつきやすいように、その人の評価に深くかかわって、自尊心を傷つけられることにもなります。特に自尊心の強い人など場合によっては「人に笑われる」くらいなら自ら死を選ぶ、みたいなことすら起こります。

 ところが芸人の方たちなどは、その「笑われる」を「笑わせる」という能動にもっていってしまうわけです。そうすることで逆に人気者にもなれる。マイナスと考えられていることを、むしろプラスにしてしまうわけですね。この逆転の発想のたくましさは大したものです。

 こんな話も聞いたことがあります。ある泥棒か何か、悪ぶっている男が、なにかのことで禅宗のお坊さんにお説教をされるようなことで前に連れていかれた。その男、精一杯張り合うようにふてくされて黙って座っていたらしいです。ところがその坊さんもただ黙って向き合って座っているだけ。そうやってお互いに沈黙する時間が続いた後、坊さんが突然大きくカラカラと笑い出したらしいんです。そうしたら必死で「対抗」していたその男がツッパリがとれてしまって、すなおに話を聞くようになった。たしかそんな話です。

 似たようなことのように感じるのですが、カナータイプの言葉もまだ出てこないR君について以前ご紹介したように、R君の振る舞いを私が実況中継してお母さんに話していたら、それまで辛そうにされていたお母さんがすごく柔らかい表情になられて、「先生(山本の事)のお話を聞いていると、『自分はこれまで何を悩んでいたんだろう?バカみたい』という気になってきました」と微笑まれたんですね。

 泥棒とお母さんを並べるのは大変失礼ですが、緊張と緩和、という点では似ていると思えるですね。どちらの場合も、ご本人としては大変に緊張する状況です。それはその場の緊張ではなく、それまでの生活や人生の中で積み重ねてきた緊張です。泥棒は世間から非難される身であることをよく知っていて、その意味では世の中に受け入れられない自分を抱えて緊張している。お母さんは自分のお子さんに障がいがあると言われ、どうその現実を理解し受け入れていいかわからない状況で苦しんでこられた。その緊張がそこでちょっと外れて、そこに笑いが絡んでいます。

 この場合、苦しんできた自分を笑われたり、自分でその自分を笑うことで、ふっと楽になられるとか、変化が起こるわけです。そこに自分が生まれ変わるチャンスが訪れます。

 つまり、硬直したものの見方、価値観にがんじがらめに縛られてつらい状態になっているとき、そういうものから少し解き放たれて、新しい世界に入り始める。言い換えれば「発想の転換・逆転」です。笑いがその境目で起こるわけですね。そしてその新しい世界では、自分は改めて能動的な主体になることができたりする。

 障がいの問題への取り組みで笑いあえる関係がとても大事なのは、たんに「楽しい」とか「笑いは免疫力を高める」とか、そういうことだけではなく、もっと大事なこととしてそういう転換を柔軟に行える状態を生むから。そんな風に考えられそうです。

 

 

※ 今ふと思ったのですが、アスペルガーの方の場合ここはどうなんでしょうか。緊張の緩和の笑いは確実にありますけど、伝染はどうなのかな?興味深いところです。

※※ 笑いの話となると、フランスの哲学者ベルグソンの笑いの議論を持ち出すのが通り相場ですが、彼の笑いの話はこの「(硬直した相手が)笑われる」面の話です。それだけで笑いを論ずることの限界については昔、笑いの具体的なエピソードを分析しながら論じたことがあります(山本1994「あいだの笑い:自我を変容させるもの」野村庄吾編「人はかく笑う」所収)。それは笑いには人をつなぐ働きと、人を貶める働きの両方があるということです。どちらも人と人のつながり方、「共同性」という問題にとって欠かすことにできない問題になっています。

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  1. 515 大内雅登 515 大内雅登

    当事者としての個人的な感覚ですと、伝染はある気がしますね。
    ただ、愛想笑いと共感の笑いを線引きするのは難しいですし、そんなこと言ったら定型もそうですよね。きっと。
    利用者さんに聞いてみると共感はしているけれども「たぶんポイントが違うところで笑っているなぁ」というズレを感じていることも語ってくれたことがあります。これも程度の差で定型にも経験があるのではないでしょうか。
    付け加えるなら、そうしたポイントがズレたときに「なにがおもしろいんや!?」って詰め寄られることが多いので笑いは慎重にならざるを得ないことがあります。

  2. labo labo

    「笑いに慎重にならざるを得ない」って、アスペルガーの方が置かれた状況をとてもよく表しているものかもしれないですね。

    感情を不自然にコントロールしなければならないって、大変な課題だなあ。