2020.01.22
発達障がいを生きるということ
いよいよウェブ公開講座の第一回が近づいてきました。
私が担当する一回目は「発達障がいの支援」について、研究所なりに模索してきたことを、整理してみた内容になっています。
問いはとても素朴なもので、「なんのための支援なんだろう?」ということが出発点です。
発達障がいについては、いろんな見方がありますし、いろんな支援のテクニックもあります。でも結局のところ、それらはなんのためにあるんだろう、という素朴な話です。
そして発達障がい児を育てる保護者はどんなところで悩むんだろう?発達障がい当事者とかかわる人たちはどういうところで困難に出会うんだろう?そして当事者はどういうことで苦しんでいるんだろう?ということを、みなさんの言葉から整理して考えてみました。
「僕は僕なんだから」でA君とお母さんたちが歩んだ道もそのことを考えるうえでとても大きな手掛かりになっています。
で、結論はある意味あまりに単純ですが、「ちょっとでも幸せになる道を探して」なんですよね。
ところがそのシンプルなことが実際にはほんとにむつかしい。みんな悩み続けています。
なぜなんでしょう?なんでそんな単純なことがむつかしいんでしょう。
それを「僕は僕なんだから」のその後の展開や、ここでも連載していただいている当事者の大内さん、北村さんの記事などを手掛かりにしながら「ディスコミュニケーション」という視点から整理して考えてみました。
定型発達者と発達障がい者の間に深刻なディスコミュニケーションが生まれやすい。そのことがあらゆる困難の根っこにあるんだと思えるわけです。
ですから、支援とは、このディスコミュニケーション状態への取り組みのことだともいえることになります。いろんな支援の技法も、その背景にある知識も、結局のところ最後はそこに結び付いていくわけですね。
今回この話をまとめる中で、改めて私の中でとてもはっきりしてきたことがあります。それは私がこれまで一生懸命考えようとしてきたことは、「発達障がいとは何か」というふうに、発達障がいを「対象」として客観的に分析することというより、「発達障がいを抱えて生きる」という、生きることの意味の世界だったんだということです。
研究所の三井理事長も言われていましたが、「障がいがある」とか、「家族に障がい者を抱えている」ということが、それ自体で不幸なことではなくて、むしろ一緒に幸せに生きている家族がたくさんある(という風に少なくとも外からは見える)。
「障がい=不幸」ではないし、「定型=幸福」ではない。障がいをお互いにとっての「不幸」にしてしまっている理由を探ってそこを調整していくことが大事なことで、そのためには「意味の世界」を探ることが欠かせないと思えるのです。
障がいは私たちの外にあるのではなく、私たちがひとりの人間として、意味を生きていることそのものの中にあるのですから。
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
- 自閉の子の絵に感じるもうひとつの世界
- 発達心理学会で感じた変化
- 落語の「間」と関係調整
- 支援のミソは「葛藤の調整」。向かう先は「幸福」。
- 定型は共感性に乏しいという話が共感される話
- 大事なのは「そうなる過程」
- 今年もよろしくお願いします
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