2020.02.15
当事者研究のはなし 2
綾屋さんの分科会の後半の話です。依存症の当事者の女性三人の当事者研究の具体的な内容がご本人の話を含めて紹介されました。
個別の内容についてはプライバシーの問題もあるので、パワポ資料からも外されていますし、ここでも触れないことにします。
綾屋さん達がやられている当事者研究では主に二つのやり方があるとのことで、ひとつはアルコール依存症の方たちの自助グループで行われているように、参加者が順番に自分の思っていることを語っていき、それについてはみんなただ聞くだけで感想やコメント、議論なども行わずに終わるスタイルで、もうひとつは参加者が日常のなかで何か引っ掛かっている、気になる言葉などをトピックとして取り上げ、それについてみんながお互いの経験や理解などを語り合い、ホワイトボードを使ってそれらを整理してみる、といったやり方です。
今回の発表もその後者のタイプのもので、話し合われたトピックスとしては「怒り」等がありました。
そうやってみんなと話し合ったあと、二人がペアとなって一人が聞き手となり(今回の例ではすべて聞き役を綾屋さんがされていたようでした)、そこで自分が思ったことなどを改めて振り返っていきます。
取り上げられるトピックは、自分が困難を感じていたり、葛藤していることだったりするので、話し合うなかでその問題に自分がどう向き合っていくか、どう葛藤を乗り越えていくかの工夫も考えていくことになり、そのあと実際にその工夫を「実験」して、その結果をまた検討したり、といったことが続いていきます。
これはロジャースの来談者中心のカウンセリング(※)にも結構繋がるものを感じるのですが、それはどういうことかと言うと、葛藤を抱えた人が、その葛藤を人(カウンセリングではカウンセラー、ここでは同じ当事者の仲間)に語り、言葉によってそのうちに葛藤を整理し、解決していこうとする、という点でどちらも共通していると思えるからです。
例えば怒りということについて、たんに「腹の立つことが多くて困る!」ということではなく、どんな時にどんな怒りが起こるのか、怒りが起こりやすいのはどんな時か、怒った後どうなるのか、などを具体的に言葉にしてみます。またそれを見てほかの参加者も自分だったら、ということを語る。そうやって怒りをみんなの体験をもとに分析していくわけです。
またそれらが終わった後、そのトピックスの提案者(?)が二人一組になったときの語り手として、そこで考えたことをさらに自分なりに整理してみます。その時には子どものころから自分はどんな風に怒りを体験してきたか(人に依っては子どものころは怒りを感じなかった……意識しなかった?……人もいたりします)、年齢と共にそれがどんな風に変化してきたのか、といった怒りの個人史を振り返ったりもします。(ここでは昨日の例で大雑把に紹介しているだけなので、より正確な解説はたとえばこちらを参考にしてください。)
そしてそうやって自分(たち)の怒りを言葉にしてみることで、「じゃあその怒りにどう対処したらいいのか」という「工夫」を自分(たち)自身で考えられるようになる、という展開になっています。
さて、今回ここで特にポイントとしたいのは、そこで言葉にして語り合うことの意味です。
自分がはっきりとわからない形でなにかもやもやと悩んだり、よくわからないけどいらいらしたり、落ち込んだり、そういう状態に陥ることはだれでもあると思いますが、その状態から抜け出すときによく起こることは、「言葉でその気持ちを表す」ことができたときです。これは大人でもそうですし、療育支援の現場でいえば、言葉が出る前の子どもで自傷行為が激しくなっていた子が、言葉が出るようになって急速にその自傷が減るといった形でも見られたりします。
この「表す」ということは、必ずしも言葉でなくても、たとえば音楽や絵など、芸術につながる形でも起こることですが、とにかく何かを使って形にして表現できるようになった時、もやもや、いらいらした精神状態が落ち着くわけです。言葉にする、ということは、自分で自分の気持ちがわかる形にする、ということでもあります。
綾屋さんの前回の例でいえば、自分の体のよくわからないもやもやした状態が「おなかがすいている」という形で言葉にしてつかめたときには、「ご飯を食べる」という具体的な解決の方向に結び付きます。でもそこがモヤモヤしたままだと、何をどうしていいかも見えてこない。場合によっては自分の葛藤に自分自身気づけない、ということも起こりえます。
浜田さんが強調するように、言葉は人に語り掛ける道具であると同時に、自分自身がそれを聴く対象でもあり、その仕組みによって実は言葉が自己コントロールの道具にもなります。
そうやって自分のもやもや・いらいらした葛藤状態を言葉にして、それを人と共有できた時、「共感されて救われた」という状態が生まれます。けれどもそこで相手が理解してくれないとき、孤立感など別の苦しみが生まれます。
これは私の理解ですが、アスペルガーの方は、ここで二重の困難を抱えやすい立場にあります。
第一の困難は、自分のもやもやをうまく表現する言葉がなかなか見つからない、というものです。綾屋さんの例にもあったように、アスペルガーの方の「感覚世界」は定型的な枠にはまらないものが多くあり、定型の言葉でそれを語ろうとしても、どうもしっくりこない、という体験が繰り返されてしまうのです。そうすると、言葉が自分の素直な実感とは離れたところで、半ば「向こうの世界のはなし」として組み立てられていく、ということが起こるように思います。
定型の言葉は自分の感覚に響いてこない。自分の感覚は定型の言葉の世界に添って行かない。自分の感覚世界と、定型の言葉の世界はいつもなにか透明な膜が間にあって、疎遠な世界になる。ガラスのこちら側から外の世界(定型世界)を覗いているような感覚、という表現をされる方もあります。(※※)
大内さんと話し合っていてもそういう独特の言葉の世界が定型との間で作られていることを感じることがあります。ですから、私の定形的な感覚で大内さんの言葉をつかもうとしてもうまくつかめないし、逆に大内さんが定型に合わせる形で言葉にしてくれていることを、そのまま定型的な感覚で受け取ると、今度は大内さんの世界にうまくつながっていけないという感じがしばしば起こるのです。大内さんとのコミュニケーションではそういう微妙なずれをいつも楽しみながら、その都度また新しい発見をする、という楽しく実り豊かな展開に私にはなっています。
第二の困難は、上の話にもすでに書かれていることですが、自分にとってせっかく素直に思える言葉を見つけたように思っても、実際にそれを使って話しかけても定型には伝わらないということです。これは一つには孤立感につながりますし、「言葉で自分を語ること」への絶望感にもつながりやすくなります。
さて、このことがつまりは自閉系の方が「共感性が乏しい」と定型から言われてしまう状態なのだ、とは思えないでしょうか。
綾屋さんたちの当事者研究は、そのことをとても分かりやすい形で示してくれていると私には思えるのです。
つまりこういうことです。この当事者研究に参加される方たちは、自分の思いをうまく説明する言葉が見つからないことに多かれ少なかれ悩まれているようです。第一の困難ですね。その結果自分でもよくつかみきれないもやもややイライラが募っていくことにもなる。
そこでそういうもやもやイライラにつながってしまう言葉(テーマ)が話し合いの素材になることが多いようです。
ところが、その話し合いを定型との間でやると、「定型的な感覚に基づく言葉=定型語」の世界が強いために、結局その言葉は定型の枠に奪われてしまって自分の言葉にならない。第二の困難です。
それが同じような体験、感覚世界を共有しやすい当事者どうしで丁寧に話し合うことによって、そこで定型との間では通じ合えない自分たちの言葉(アスペルガー語?)が見つかっていくわけです。そしてそのように自分の素直な感覚を表してくれる言葉をその仲間と共有し、コミュニケーションのツールとして使いあえることになるのですね。そこに「感覚の共有」すなわち「共感」が生まれているわけです。
ということは、「自閉系の人は共感性が乏しい(または共感できない)」という見方は、ほとんど神話にも等しいことを、この当事者研究が証明してくれているということにもなります。いずれご紹介したいと思っていますが、青山学院大の米田さんたちの研究も、同じようなポイントを脳科学的に分析した例になります。私も講演や研修などでよく強調するのですが、多くの場合実際は共感できないのではなく、共感のポイントが違うだけなのです。
多数派である定型発達者は、自分たちに共通する感覚の世界をベースに、通じ合う言葉の世界を強固に作っていきます。そしてその言葉を使って、共通する感覚世界をさらに共有し、共感的な世界を広げていく。定型発達者にとっては多くの場合「私の言葉」は「あなたの言葉」と通じる「私たちの言葉」なのですが、少数派である自閉系の方たちは、自分と共有できる感覚世界を持った人たちとつながることがむつかしく、定型語を使うことを強制され、アスペルガー語は得体のしれない誤った言葉として矯正され、「私の言葉」と「あなたの言葉」を通じさせる「私たちの言葉」を生み出す機会をなかなか作れない、という状況があるように思います。
その「私たちの言葉」を小さなグループの中で丁寧に作り上げていこうとしているのが当事者研究なのかなと、昨日のお話を聞いて私は感じました。
※ 心理療法のカウンセリングにはいろんなスタイルがあります。フロイトの精神分析では、楽な姿勢に横たわるクライエントに分析者が色々語らせ、その葛藤の構造を分析医が言葉にして分析していきます。その過程でクライエントが自分の葛藤について新しい解釈を獲得し、それを乗り越えていく形です。そのプロセスをコントロールするのはあくまで分析者で、このスタイルでは分析の主体は分析医の方ですね。
これにたいしてロジャースが強調した来談者中心療法では、カウンセラーはクライエントの話を傾聴する姿勢を重視します。葛藤を語って分析し、理解する主体はあくまでクライエント本人だということになりますね。
認知療法は専門的なアドバイスを含めつつ、カウンセラーとクライエントが具体的な対処の工夫を相談して決めていくスタイルでしょうか。
それらとの比較で言うと、この当事者研究のスタイルは、専門家が分析するのではなく、同じ悩みを抱えた当事者がおたがいに語り合うことで刺激しあって葛藤の理解を深め、対処法を工夫していくやり方、ということになりそうです。
※※ 臨床心理学的には「離人的な体験」というのがその状態に近い気がします。でもここでその状態を一種の「症状」と言いたいわけではありません。「外界と感覚的にすっとつながれない状態」「世界がよそよそしく見えてしまう状態」「私がそこにいてそこにいないような状態」といったところで、両者に共通する状態が生み出されているように思えるというだけです。少なくともアスペルガー者にそれが起こる時は、ディスコミュニケーションが生み出す状態の一つとしてと考える方がよいように思います。
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日テレで放送された番組のリンクです。
デイリーモーション
参考にご覧ください。
https://www.dailymotion.com/video/x1cn9yd
お返事遅くなりました。すみません。
ご紹介ありがとうございました。