2020.08.05
発達障がい者は本当に困っている?
今実施中のWEB公開講座「これからの発達障がい支援を考える2」第二回「当事者が語る発達支援:当事者の視点から考えるこれからの支援のあり方」(※)では、4名のアスペルガー&ADHD当事者の方にインタビューをしています。
※ この回の概要を説明した10分の動画は講座期間外も含め、どなたでもこちらからいつでも自由にご覧になれます。同様に第一回分の概要はこちらからごらんいただけます。また時期が合わずに既に終了した分についても、申し込んでいただければ追加でご視聴いただけるようにしたいと思います。
そこで私と渡辺主席研究員がインタビュアーになり、みなさんに四つの質問をさせていただきました。
「子どものころから現在まで、定型社会に生きてきて違和感や困難を感じたこと」
「子どものころを中心に、ご自分の親や大人との関係について感じていたこと」
「当事者として支援やコラボにかかわることの利点とむつかしさ」
「当事者視点をベースにしたこれからの支援・共生の試みで大事なこと」
の四つです。
さて、みなさんならどんな回答が出てくると想像されますでしょうか。
実際にインタビューを行ってみて、とても興味深いことがわかりました。というのは、この質問の仕方そのものが、インタビューを受けた方の少なくとも一部の方にはピンとこないものだったということです。
特にはっきりしていたのは、最初の「違和感や困難」でした。二人の方がはっきりと「特にない」と言われていたんです。またもう一人の方も「そういう見方をするようになったのはごく最近」と言われていました。
これがなかなか(いい意味で)衝撃的でした。なんでかというと、
「発達障がい者はさまざまな困難を抱えて苦労して生きてきた。その結果、二次障がいなどにも苦しむと言ったことが起こる。だから支援が必要だ」
というのは、もう郵便ポストは赤い、くらいに当たり前の前提として自分が考えてしまっていた「偏見の物語」であるということが明らかになってしまったからです。でも本当は郵便ポストだって緑や青、黒色の物もあるんです(笑)
でもその方たちも悩みは持って生きてきました。その悩みの深さによって、お一人の方はうつ状態になり、そのことがきっかけで診断にも至っています。
これはどういうことでしょうか?「悩む」=「困難」=「発達障がい」みたいな理解の図式が無意識に私の中には成り立っていました。でもそう単純な話ではないということです。
この問題を私なりに理解するために、ここでちょっと視点を変えてみます。「あなたは悩みがないですか?」と聞かれたら、みなさんは何と答えられるでしょうか?「生まれてから一度も私は悩んだことがない」と答える方はあるのでしょうか?もしかするとあるかもしれませんが、私がそういう方に出会ったらちょっとびっくりという感じです。
ということは、まあ「普通は」人は悩むよね、ということになります。悩みはなんらかの困難につながっています。ということは上の単純な理解の図式に従えば、あなたは「発達障がい者」だということになります………?
なんかへんな話ですよね。「悩み」というのはだいたい誰でも持つものです。「なぜ悩むのか」ということを考えたとき、「こういう困難が生じるから」とか「こういう困難を抱えていて」というようにその原因を考えるでしょう。そして発達障がいの診断を受けた方の場合、そこで「その困難の原因はあなたが発達障がい者だということにある」と宣言されることになります。
つまり、悩みがその人にとって発達障がいにつながるとすれば、それはその診断によってなのだということになります。そういうわけで診断名をあたえられることで「私のこれまでの悩み・苦しみの原因がようやくわかった」と救われた気持ちになる当事者の方も少なくありません。そしてその話を聞くと、定型発達者はそれを逆向きに考えて、「発達障がい者だから困難を抱え、発達障がい者だから悩むんだ」と思ってしまいがちになります。
でもそれは結局定型発達者の視点から見た理解なんですね。そのことが今回のインタビューを通して私はよくわかった気がしました。
定型の目から見れば、その悩みは「発達障がいの特性が原因」に見えます。でも、もともとその特性をもって生まれ、それを前提に生きてきた人からすれば、それは言ってみれば「自分なりに生きていく中で自然に体験する悩み」なんだろうと思います。
ちょっと微妙な言い方になっているので、うまく私の言いたいことが伝わるでしょうか?
当事者の方は、もともと「自分の悩み」を悩んでいるわけで、「発達障がい者の悩み」を悩んでいるわけではありません。定型発達者がそれぞれの方の悩みを「自分の悩み」として悩んでいるのとその点では同じです。どちらも「○○だから悩む」のではなく、「自分の悩み」を悩んでいるだけなんです。「発達障がい」というのは、いわば後からやってきた名前であって、それがつこうがつくまいが、「私は私」であることには変わりがありません。悩んでいるのは「発達障がい者である自分」なのではなくあくまで「この自分(発達障がいの特性も併せ持つ)」なのです。
だから最初の問い「子どものころから現在まで、定型社会に生きてきて違和感や困難を感じたこと」という聞き方は、いわば「診断名」が付いた後から見たときの「後付けの質問」なんだということになります。当事者の視点からすれば、なんと名前を付けられようとそれは「自分の事」なのですから、外から与えられた「診断名」によって悩んでいるわけではなく、その人にとって生まれながらに自然に悩む悩みを抱えているのだということです。
もう少しうまい説明の仕方がないかと私も悩むのですが(笑)、「悩み」とは何か、ということを、当事者が生きて体験しているその人の視点から理解する場合と、その外側から「その人の特性」として理解して説明する場合では、かなり重要な違いが生まれてしまうんだということ、そして「その人がどう生きていくのか」ということを考えるうえでは、この「その人自身の体験の中で、その悩みがどう体験されているのか」ということへの想像力を持つことがものすごく大事だということを考える大事な例の一つなんだと思います。
というわけで、「当事者の視点から問題を考えるきっかけを得たい」と思って行った私たちのインタビューだったのですが、そもそもそのインタビューの構成自体が定型発達者の視点からのものでしかなかったという、ある意味漫画のようなことが起こったことになります。
もちろんここで考えてみた私の理解も定型的な感覚を持つ私が当事者の方の話を聞いて想像したことにすぎませんので、どこまで当事者の方の気持ちにフィットするのかはよくわかりません。ただ、少なくとも自分の発達障がい理解の浅さを改めて教えてもらえた大事な体験ではありました。
発達障がい者の方と対話していて、いつも自分が「ああ、自分は定型発達者の感覚でしか理解できていないなあ」と思わされるのですが、かといって私が自分を超えて神様のように公平な視点で発達障がいの方と対話できることもあり得ません。そんなことができる人を今まで私は見たことがありません。
発達障がいの当事者と同じく、私は定型発達者当事者として生きていき、定型当事者として考えるしかほかに道はありません。ただそういう自分が異なる感覚や考え方、生き方を作り上げて生きてこられている発達障がい者と接することで、少しずつ自分の「常識」を柔らかくし、お互いのずれの調整の手法を見つけていくことができるだけです。
「だけです」と書きましたが、でもそれが大事なんですよね。そう思ってまた「わからないこと」への挑戦を続けていきたいと思います。
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
- 自閉の子の絵に感じるもうひとつの世界
- 発達心理学会で感じた変化
- 落語の「間」と関係調整
- 支援のミソは「葛藤の調整」。向かう先は「幸福」。
- 定型は共感性に乏しいという話が共感される話
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- 今年もよろしくお願いします
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