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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2020.08.09

自閉的なコミュニケーションスタイルを図にしてみると

自閉系の方のコミュニケーションの特徴について、もしかするとこういう風に理解するとわかりやすくなる部分があるかもしれない、と思うことがあります。もちろん一つの考え方にすぎませんし、どこまでいろんなことを説明できるかはわかりません。

まずいくつかヒントになることを書いてみます。

アスペルガーの方とやりとりをしていて、こういうことを言われることがあります。いろいろじっくり話していって、割合深い話になっていって、会話が進んでいく時に、突然相手の人が「恥ずかしい」という感覚になられることがあるのです。どういうことかというと、「自分が見られていることに気が付いた」と言われるのですね。

いや、見られていると言ったって、やりとりを続けているんですから、相手として私がいることは当然わかっていますよね。そのことを定型的な感覚で絵にしてみると、こんな感じかと思います。相手の人をはっきり意識しながら話している感じです。

これに対して、「見られていることに気づいて恥ずかしくなった」と感じられるようなときは、次のようなイメージなのかなという気がするのです。話している側がアスペルガーの方です。

「ガラスの向こう側の世界をこちらから見ているような感覚」というふうに表現されることもあります(※)。多分そのガラスはマジックミラーに近くて、「私が見ている」という感覚はあっても、「相手に見られている」という感覚は薄いとか、そんな感じなのかなと私は想像しました。

そのようにしてぼんやりと相手を意識しながら自分のことについて話しているうちに、突然上の図のように相手がはっきりと見えてきてしまった。そしてその相手に自分が見られていることに気づいた、という展開です。

 

二番目の例はこんなものです。アスペルガーの子どもとやりとりをしていると、時々「返事をしない」ことがあって、「どうして返事をしないの?」と聞くと、「ちゃんと返事した」と言われることがあります。最初のころは嘘をついているのかと誤解していましたが、実際はごく小さい声で返事をしているか、場合によっては自分の心の中で返事をしているようなんです。だから本人としてはちゃんと返事をしたと思っている。でもその返事の声は相手には届いていない、という例です。

 

この二つの例、なにか共通性を感じないでしょうか。

ここで浜田さんが重視されている「ことば」の基本性格について少し説明しましょう。たんに私が不勉強なせいかもしれませんが、浜田さん以前にはこういう重要な問題が発達心理学の中で取り上げられることはなかったような気がします。いまだにこの問題の重要性が発達心理学のきわめて重要なポイントの一つだということについての議論がまともに論じられていることはなさそうなのです。(なんともったいないことかと思います。)

私たちが人と話をするとき、面白いことが起こっています。それは話すのは相手に聞いてもらうためなのですが、同時に自分も自分の声を無意識に聞いています。私たちは「自分で自分の声を聴く」ということで、今度は自分を相手に話しかける「独り言」がそこに成立します。

さらに実際に声を出さないで、心の中で「つぶやく(思う)」形になれば、「黙って自分と対話する」ことになりますね。頭の中で行う自己内対話、対話的思考の基本パターンと考えられます。

 

もともと人間の言語はそういう性格を持っているわけです。そのことを前提として、上の二つの例を説明してみましょう。定型と比較した時に、自閉系の方の会話には次のような「自己をベースにした」というニュアンスが強まるように思えます。

「相手を意識した会話」の図と比べてみていただきたいのですが、このパターンでは独り言のパターンとは違い、相手が意識されています。それで一応相手に話している状態です。けれども意識の中心が自分自身にあって、相手はうっすらと意識された状態です。

ですから話すときに、定型的に「相手を意識した会話」では相手をベースに「相手に話している」という状態がありますし、「自分の声が相手に届いているかどうか」を常にチェックすることになります。これに対して自閉系の方の場合、自己をベースに「相手の前で自分に話している」とでも表現可能な状態が生まれているように感じるわけです。その結果「自分の声が相手に届いているかどうか」をチェックすることが弱くなり、「私は話した(けれども相手には聞こえていなかった)」ということが起こりやすくなる。

またその逆のパターンもこれで説明できます。つまり、自閉系の方の場合、相手を強く意識するあまり、今度は自分の事を意識しずらくなることが起こりやすい、ということです。イメージ的には下の図で説明できるでしょう。

オーソドックスな心理学の視点から言えば、これは「複数の視点を同時に組み合わせて関係調整する能力」の問題で片付けられてしまいそうです。自閉系の子どもで、一方的に話し込んでしまって、相手と「会話」にならないということがよく問題にされますが、これも話していると、自分のことばかり意識が行って、聞いている相手の事をちゃんと意識できなくなってしまうから、という説明ができますし、その証拠に、たとえば人形を目の前に置いて、その人形を順番に渡して「誰が話す番なのか」ということを視覚的に見やすい状態にすると、交替交替の会話が成り立ちやすくなったりします。

「心の理論」のサリーとアンの課題などでもみられるように、確かに「自分とは違う」相手の見方を理解するときに、自閉系の人たちは定型よりも苦手なところがあります。全くできないわけではないですが、できるようになるまでに時間がかかるんですね。

ピアジェ的に言えば「中心化」と呼ばれる現象ということになります。つまり一つの視点で理解して(その視点に中心化してしまい)、他の視点を同時に意識することがむつかしい状態です。ですから自分の視点に注意を向けると相手が見えにくくなり、その逆に相手の視点に注意を向けると、今度は自分が見えにくくなって、相手に巻き込まれてしまう、という展開になりやすくなります。

 

さて、ピアジェの言葉でいえば「中心化」の状態を抜け出して「脱中心化」し、複数の視点から考えられるようになることが「知能の発達」とされています。彼の知能の発達の理論の基本的な視点はそこにあります。脱中心化していないのは「発達していない」ことになります。

たしかにその視点から見れば、自閉系の方たちは「十分発達していない」ことになり、それゆえに「発達障がい」だということになります。けれどももう一歩立ち止まって問題を考えてみましょう。その見方自体が実は「定型的な視点」に「中心化」された、「発達していない」見方だという可能性はないでしょうか?

 

つまりこういうことです。自閉系の方たちは、定型の持つ特性とは少し違う感じ方、視点の持ち方を持つことで、違うコミュニケーションのスタイルを作り出し、そのスタイルでほかの人とかかわります。それはいろいろなことを「自己をベースに考える」視点から他者とかかわるスタイルだと考えてみましょう(※※)。だから別に相手を全く意識できないことはないし、会話もできるわけです。

それに対して定型は「相手を強く意識しながら考える」視点から他者とかかわるコミュニケーションのスタイルを持っているという見方もありうる。

これはそれぞれの心理学的な特性の違いから生まれるコミュニケーションスタイルの違いであって、両者がうまくかみ合わないことで様々な社会的トラブルが起こる元にはなりますが、それを「発達している、していない」という評価の軸で「優劣」をつけて理解すべきものではない、ということになります。

定型の側がそういう見方をしないで、単に「まだできない」という視点だけで見てしまうのは、上の象さんの見え方の図のように、自閉系の方が違う観点からのコミュニケーションスタイルを持っていることに単に気づいていないだけなのだとすれば、それもまた中心化ということになってしまうわけです。

 

実際この社会的トラブル(たとえば言葉遣いが問題とされるなど)を軽減するための「療育支援」は今のところ、どうにかして自閉系の人に定型的なコミュニケーションパターンを理解させ、身に着けさせようとする形で模索されているのがまだまだ多くなっています。

たしかに定型社会で生きていくうえではそれも必要な「技術」にはなります。自閉系の方たちも、自分たちと違う「定型的なスタイル」を理解することが必要でしょう。ただ問題は何かというと、逆に定型の側は定型とは違う「自閉的なスタイル」があるんだということを意識して、それを理解しようとする努力をどこまで行えているか、ということだと思います。

「自閉的なスタイル」も「定型的なスタイル」同様、一つの生き方だと考えてみましょう。言ってみれば人々の中に、「自然の中で自然と対話しながら穏やかに暮らすライフスタイル」がとても大事な人もいれば、逆に「都会の中で人々の喧騒の中で刺激的に暮らすライフスタイル」でないとしんどい人もいるのと同じようなものです。ですから、その一方を頭から否定して他方に従わせようとするのではなく、社会的トラブルの解決にはその異なるスタイルをうまく調整するというスタンスでの「支援」の模索が、これからますます重要になるように思います。

 

 

※ 臨床心理学的には神経症の「離人症」と名付けられるような状態に近いとも思えますが、そう名付けてしまうとちょっと大事なことが見失われるように思います。なにかそれは病理的なこと、「異常なこと」のような受け止め方になるからです。そうではなくて、基本的なコミュニケーションのもうひとつの形と考えた方がよいだろうと、直観的には思います。

※※ ここでは「自己」というものの感覚は比較的安定しているということを前提に議論を進めていますが、たとえばアスペルガー当事者として当事者研究で活躍されている綾屋紗月さんなどは、そもそもその「自己」が安定したまとまりとして感じられることのむつかしさの問題にも言及されています(「つながりの作法」などをご覧ください)。さらに考えていくべき大事なポイントのひとつと思います。また綾屋さんの場合、「自分の声を自分で聞く」ということにも困難を感じられているようです。さまざまな周りの雑音などと混じって耳に届くために、自分の声を自分の声としてまとまって聞くことにむつかしさが生じるようです。そのため、自分の声を自分で聞きながら音の大小などを調整することにも困難が生まれます。困難であるということと自分の声を自分で聞くというルートが存在することは別に矛盾しませんが、このあたりにも大事な問題がありそうですね。

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