2020.08.21
支援とはつなぐこと
客員研究員の引地達也さんが学長になって最近始められたネットを使った、「みんなの大学校」と研究所の共同企画で、今度発達支援事業所の皆さんへの情報誌「つなぐ」を発行することになっています。
それでその創刊準備号の企画で、引地さんと当事者研究の綾屋紗月さんと私の三人で、今日zoomで「当事者が生きやすくなるためのてがかりをさぐる―言葉をつむぐ、つながる、ひろげるためにできること」というタイトル(仮題)の鼎談をやって、とても面白かったです。
内容はまた改めてはつけんラボでもご紹介する場を作りたいと思っていますが、今回いろいろ話し合う中で、気持ちにすっと収まった言葉がありました。それは「支援とはつなぐこと」なんだということでした。
発達障がい者はその特性によって、定型発達者とは異なる体の感覚や外界の刺激の感じ方などをする部分があり、言い換えれば同じ状況の中に居ても、定型発達者の特性から作られる定型的体験の世界とは少し違う体験の世界を持っているところがあります。
同じ場にいても違う体験世界にずれがあるので、お互いにそれをうまく共有できず、関係がちぐはぐになってお互いに「つながれない」ということが起こやすくなります。
それでもなんとかこの定型優位な社会で生きていかなければならないので、発達障がい児への支援は「この社会で要求されている基準にどこまで近づけられるか」という視点がベースに置かれがちです。
それはこの世の中で生きていくためにはどうしても必要な「技術」ではありますが、支援が「技術」を超えて、「その子を定型に近づける」ことを目的にしてしまうとき、子どもは自分にとって自然な自分の特性による体験世界を肯定できなくなってしまうことがおきます。
そういう形での「支援」は、結果としてその子の自然な姿を否定して、「定型的な基準に一方的に従わせる」形になってしまいます。
そうならない形で支援するには何が大事なのかと言えば、その子の特性からくる感じ方、考え方については、それはその子にとってリアルな現実からくるものだ、ということで受け入れ(子どもからすると、自分の感覚を否定されず、そのままいったん肯定的に受け止められた体験)、そのうえで、違う定型的特性から生み出されている社会の仕組みとうまく折り合っていく技術をさぐっていくことだと思います。(もちろん定型の側も合理的配慮など、様々な特性を持つ人々が生きやすい環境づくりにも努力が必要で、それは双方向的なことですが)
こういう支援の在り方というのは、お互いにお互いの世界を認めたうえで、一方に他方を従わせるのではなく、その二つの世界を「つなぐ」工夫をすることなんだと思います。
そう考えると、支援者は自分のそれまでの経験や知識を生かしながら、子どもと一緒にお互いの世界を「つなぐ」方法を一緒に模索する役割なんですね。
またこういう役割もあると思います。子どもが自分の特性による感覚が周囲に理解されずに苦しんでいる時、「同じような体験をする人たちがいる」ことを知ることによって、孤立して自己否定的になってしまう状況から救われることが起こります。「私が感じたしんどさ、怒り、悲しさ、違和感は幻想じゃないんだ」と安心できるんですね。そういう、似たような体験を共有できる子どもたち同士をつなぐ役割も果たせるはずです。
さらにもうひとつあります。「支援者」と「被支援者」の間で時々問題になるのは、多くの場合「善意」でなのですが、結果的に支援者が被支援者を自分の考え方で支配してしまう、ということです。支援が個人的な支配になってしまう、という状況を避けるには、支援者がいろんな人に被支援者をつなぐことが必要です。
そうやっていろんなつながりを子どもが作っていくための手伝いをする。そしていろんなつながりの中で子どもが自分を見失うことなく、より自分らしく生きていける道を探っていく手伝いをする。それが支援なんだ、と改めて思えたんですね。
そういったもろもろの思いが、「支援とはつなぐこと」というシンプルな言葉にすっとまとまって感じられました。
- 支援者こそが障がい者との対話に学ぶ
- 「笑顔が出てくること」がなぜ支援で大事なのか?
- ディスコミュニケーション論と逆SSTで変わる自閉理解
- 冤罪と当事者視点とディスコミュニケーション
- 当事者視点からの理解の波:質的心理学会
- 自閉的生き方と「ことば」2
- 自閉的生き方と「ことば」1
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
支援とはつなぐことという言葉にとても共感を覚えました。支援に限らず、人が繋がることで変わっていくということを目にします。私は教育の現場でそうんな思いを持ちました。様々な問題を抱える高校生を周りの協力を得ながら、県内はもとより他県の高校生たちと活動をすることをしてきました。個々の高校生の持っている問題に私を含め大人が何かしてやろうとしても大きく変化することがなかったのですが、似た立場の高校生の言動に触発され、自分を変えていく決断をした現場を沢山見てきました。それは孤立していた存在が自分を受け入れられることで、励まされ活躍する劇的な変化でした。一人でやってあげられることは大したことはありませんが、つながることでおこる変化はすごいなと。所長のブログで、療育でも教育でも繋がることの大切さを改めて考える良い機会をえました。ありがとうございました。
コメントありがとうございます。
人が苦しむのはうまく「つながれない」ときで、「つながれる」ときに幸せを感じたり勇気を得たりする人が多いのだと思います。すべての人がそうなのかどうかは、まだ私にはわからないのですが、そういうことが多いですし、対人関係が苦手と言われる自閉症スペクトラムの方たちもその点では同じだと、多くのケースで実感しています。
もう一言足すとすれば、「支援とはつなぐこと、そしてそのつながりの質を高めていくこと」になるのかなと思います。