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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

    ブログ総目次(リンク)はこちらからご覧いただけます。

2019.08.16

「可愛い!」

最初に昔発達相談員として通っていた施設の話を書いたら、その頃のことをいろいろ思い出しました。

ある若いお母さんの一人娘のお子さんが、点頭てんかんを持ち、知的な発達もとても遅く、言葉も出ず、視線を交わしたコミュニケーションもむつかしい。いろいろな事情も抱え、お母さん、本当に大変だろうと思いました。

その子のことをケース会議で検討する日があり、その日は私はいつも通り、まず集団で子どもたちが自由に遊び、そこにスタッフの方が適宜かかわっている場面を観察させていただき、お昼の給食を子どもたちと一緒に食べた後、別室にお母さんとお子さんに来ていただいて、新版K式発達検査を実施して、それらの観察+検査の様子を元に記録を作ってケース会議に臨むという展開でした。

検査の様子がどうだったか、何がどう問題になったか、もうずいぶん昔のことで、よく覚えていません。ただひとつ心に残り続けていることは、検査の間、子どもが少しでも検査に応じられるように、膝の上にお子さんを座らせて抱いていらしたそのお母さんが、私と話をしながら、ふと黙って子どもをぎゅっと抱きしめられたシーンでした。

あるとき、別のところでの話ですが、障がいとしてはそれほど重いとは言えないお子さんを療育に通わせているお母さんが、こちらもいろいろな背景事情を抱えながら、その状態に必死で耐えていらっしゃいました。見るからにつらそうな様子をされていて、子どもが笑顔で呼びかけてもかすかに頬を動かして笑顔を向けるだけで、すぐにつらそうな顔に戻ってしまう、そんな様子でした。

私は何か声をかけたくて、その時特に考えることもなく出たのが「この子、ほんとに可愛いですね!」という言葉でした。実際ほんとにけなげにいろいろ頑張ってるその子の姿はとてもかわいらしく感じていたのです。

その時、それまで固まっていたように思えたそのお母さんの姿勢がすーっとゆるみ、つらそうな表情が少し溶けるように笑顔が浮かんできて、「ありがとうございます」と小さな声で私を見て言われました。

いろいろな状況の中で、子どもを可愛いと思うこと、あるいは表現することもむつかしくなられていたのだろうと、その時思いました。でもその可愛いと思う思いがそのお母さんにとってはひとつの支えになるのでしょう。そう感じました。

動画「僕は僕なんだから」の中で、自閉症のお子さんを育ててこられたお母さんからのメッセージの言葉に、やはり、療育支援のスタッフの方から「可愛いですね!」と言われたことが救いだった、ということが語られています。

自分の子どもを可愛いと素直に思えなくなる状況には、いろんな原因があると思います。可愛い、という気持ちもその子に「大切さ」を感じている表現のひとつですから、子育てという大変なことを乗り越えていくうえでもとても大きな支えの一つです。多くの方にとってはごく自然にわいてくるその感情が、阻害されてしまう状況があるのですね。

自分の子どもを「可愛い」と素直に思ってもいいのかどうかということについての「戸惑い」が生まれてしまう状況がそこにあるのでしょう。そしてその思いを阻害する大きな原因が「障がい」という言葉になります。障がいという言葉は、社会の中ではマイナスのイメージで語られることが多いからです。社会の中で生きているお母さんもまた、そういうイメージに引きずられざるを得ません。その思いが強いほど、「可愛い」と素直に思えない状況が生まれる。

「五体不満足」の乙武さんが生まれたとき、お母さんが最初に乙武さんを見て「可愛い!」と言われたという、感動的なエピソードがあります。これは私の想像でしかありませんが、その言葉は半分は素直にそう思われたし、もう半分はとっさの決意として言われたのだろうという気がするのです。

子どもを可愛いと思う気持ちがとても自然なものであるように、反面「身体障がい」の状態を見てショックを受けるのも自然な感情だと私は思っています。それはいい悪いの問題ではなく、たとえば誰かがけがで手を失ったときの状態を見たら、まずはびっくりして、それからそのケガに対して必要な援助をしようとするでしょう(もちろんこの時援助に向かうか排斥に向かうかはシビアな問題にもなります)。人にはそういうふうに「健全な状態」を判断するという自然な仕組みがあって、そこから外れて見える人にびっくりする、という心理的な仕組みがそもそも備わっているのだろうという気がするのです。

もしそうであるとすれば、乙武さんのお母さんは乙武さんを見て一瞬驚き、たじろぎそうになったかもしれません。その瞬時の揺れ動きの中で、お母さんは「この子は私の大事な子、大事に一緒に生きていく」という決断をされ、それを「可愛い!」という言葉で自分自身に対して「宣言」されたのではないかという気がするのです。

もちろんそうでないかもしれませんが、そう考えたとき、その言葉が私にとっては最初に書いた、膝の上の娘さんをギュッと抱きしめた、あのお母さんの姿につながるものとして感じられます。

発達障がいは身体障がいに比べ、一見して違いがわかる、というものではありません。知的な遅れがある場合でも小さいうちは特にそうです。知的遅れがない場合はさらに気づきにくい。そのため、身体障がいの「障がい受容」とはまた異なるむつかしさがその「障がい受容」には伴います。

けれども、そこで問題になるのは、やはり乙武さんのお母さんが直面した問題と同じだろうという気がします。そしてある意味では社会的に否定的にみられ、扱われることが重なるという現実をどう乗り越えていくのか。そこでその子がその子なりに自分らしく生きていく道を、本人と周囲の人たちでどう切り拓いていけるのか、それが結局発達障がい児・者支援の一番の課題なのだろうと、そういうことを思います。

「可愛い!」という言葉は、そのことを考えるうえでとても大きな言葉のように思いました。

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