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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2019.08.30

R君の積み木(1)

記事「障がい観の「発達」」でご紹介した自閉症と診断されている2歳11か月の男の子R君の積み木について、その後の展開も継続して教えていただいているので、時々紹介してみたいと思っています。今回はその1回目です。次の写真はそこで紹介した「列車」と見たてられたように思える作品です。

積み木を並べて奥に一本、さらに手前に三本を分岐するように並べています。そしてその奥で同じ色で二つの積み木の塔を積み上げる、という形です。積み上げた方は先生がモデルを示していたもので、以前は見ると壊してしまったようですが、この時は自分でも積み上げました。

このように横に積み木をつなげていって、ごろんと横になって「キー」などと言いながら積み木をまじかに見ている姿が、ちょうど駅のホームで列車を見ているシーンを列車の停車時の効果音付きで楽しんでいるように、見ている私には感じられ、分岐した線路に停車している列車を右側の三本で表しているように「見えた」わけです。

つまり「積み木」を使って「鉄道」を再現して楽しんでいる、というふうに理解すれば、これはあるものを別のもので表す、という言語能力にとって基本的な「見立て」の遊びをしているように見えます。

言葉の発達とは何か、コミュニケーションの発達とは何か、ということは、発達心理学的にも大変に大きなメインテーマの一つになります。講義動画でも語られているように、浜田寿美男さんも、自閉症との出会いからその問題を深く考え、「人の発達の基本的な仕組み」についての考察を深められています。

言葉には、「あるもの(記号)で別のもの(意味)を表す」という記号的な仕組みが成立することと、他者と受動=能動のやりとりを展開する中で共通の対象への注意を共有する間主観的(※)な心理的仕組みが成立することの両方が必要です。

簡単に言えば「記号を使って意味を共有してやりとりする」のが言葉の力で、この言葉があるので、人間はほかの動物とは比べ物にならない複雑な社会を作り上げています。

SLDの子どもも、ADHDの子どもも、知的障がいの子どもも、ダウンの子どもも、そして定型の子どもも、自閉傾向を伴わない限りは早い遅いはあっても言葉はそのようにして獲得され、発達されていく点で変わりはありません。

ただ自閉傾向、特にカナータイプの子どもはこの点でとても独特の発達をしていきますし、言葉を獲得した後も、独特の、ある種不思議な言葉遣いが消えません。アスペルガーに分類されるような方も、一見定型と同じような言葉の能力を獲得しているように見えて、やはり自閉傾向を持つ独特の意味理解や言葉遣い、言語的なコミュニケーションの特徴が割合と深いところで残るように思われます。

その違いを図式的に言うと、どうも自閉系の方はことばの「記号的な関係理解」の方向はそれなりに子ども自身の内部で発達しながら、人とのかかわり方の問題である「間主観的な意味の共有」の方向で定型発達者とかなり異なる展開をする、というふうに整理すると、わりあいわかりやすいように思えるのです。

このR君の例でいうと、上に書いたようにこちらが読み取れば、「記号的な関係理解」が始まっているように見えます。ただ、本当にそう見立てているのか、単にこちらが過剰にそれを読み取っているだけなのか、ということについていうと、多分そうだろうという気はしますが、少なくともこの時点では可能性にとどまり、まだ確定的には言い難い感じはします。

なぜかというと、R君が仮にそう見立てているとしても、そのように周囲の人に「表現」してくれないからです。つまり見立ての意味を共有する、ということに困難を感じるわけです。人と自分の見立てを共有することより、自分の見立ての世界を自分で楽しむことの方がR君にはよほど大事なように見えます。

ですから、その遊びを発展させようとして、大人がそこに「積み木を積み上げる」という新しい要素を持ち込もうとしても、それは自分が作ろうとする世界にとっては邪魔なもの(予定外のモノ)なので、壊してしまうと考えるとわかりやすい気がします。

ではR君の「他者との遊びの共有」の関係はこれからどう進んでいくのでしょうか。それは定型の子どもたちの進み方とはかなり違った様相を持つことが予想されます。違った形で、R君なりに他者とのコミュニケーションのありかたを作っていくだろうと思います。お母さんにも了解をいただいていますので、その展開をこれから折に触れて追ってみたいと思います。

もうひとつ、次は前の写真の三日後に作ったものです。担当の石黒 留美先生からは以下のような説明も送っていただきました。

「この日は20分ほどつみきに取り組んでおられました。つみきは見つけられるとまず手を伸ばされるお気に入りのグッズです。2-3分か5分ほどか様々ですが取り組まれ、むくっと立ち上がって走り出されます。廊下を行くときは「むー」のような声を出されながら走られることが多いです。帰ってくるときは、首振りや下を向いて走られることが多いです。この日も半分ほどは寝転がりながらつなげておられました。常に音を出しながら(私には歌っているように聞こえるのですが)つなげる、いれかえる、をされておられます。活動されながら、にっこり笑われたり、困った顔をされたりしておられます。」

 

※ 間主観性 私たちは誰も自分の主観でものを見ています。けれどもその時、自分の主観だけがそれを見ているとは思っておらず、他の人も同じものをその人の主観で見ていると素朴に信じています。

このように、ものは私の主観だけでなく、他の主観にも現れていて、その事を前提に私たちは人とものをやり取りするわけです。

そういう複数の主観の関係のなかで現れる世界を間主観的世界と言い、そのような主観の性格を間主観性と言います。

哲学的には「確実にあると言えるのは自分の主観だけ」という「独我論」を越えるために現象学などで議論された概念でもあります。

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