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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

    ブログ総目次(リンク)はこちらからご覧いただけます。

2019.09.27

外側からの理解と内側からの理解(2)

さて、外側からの理解と内側からの理解について、前回は典型的な例として、その人の外側に心理的な物差しを作って(そこでは通常平均値が大事になります)、それとの比較でその人を理解する方法と、もうひとつは痛みの理解で例としたように、その人自身の主観的な体験に内側から迫ろうとする方法という形でその違いを説明をしてみました。

少し言い方を変えると、外側からの理解は、数値などで「みんなと共有できる形」を重視していて、その中に一人の人をはめ込んで理解する方法とも言えますし、そういう意味で「客観的」と言われているものです。それに対して内側からの理解は、そういうやり方も外側からの理解では分からない、その人自身の世界に迫ろうとする方法という言い方もできます。その意味で「主観的」です。

その違いをもう少し考えてみます。

「客観的」というのは、みんなと共有できる物差しを重視しています。それに対して「主観的」というのは、他の人とは違う、その人だけの感じ方、見え方、体験の世界を重視しています。ですから相手の人が痛みを訴えているときに、その人の痛みを「客観的に説明」しても、それはその人の痛みの主観的な体験を受け止めた(理解した)ことにはなりません。

仮にそう考えてみると、ちょっとややこしい問題が起こります。その人の主観的な体験の世界というのは、その人だけの世界とも考えられますから、そもそも他の人はどうやったって理解できないものじゃないか、というはなしです。「共感的な理解」とか言ってみても、結局それは共感したと思っている人がそう信じているだけで、相手の人の体験を完全に共有することなどあり得ないじゃないか、という理屈になります。

最近ある研究会で教えてもらった話なのですが、東日本大震災の被災者支援のボランティアの方たちが直面する葛藤に、やはりその問題があるのだそうです。

支援の方たちには、被災者の思いに共感してその方たちを支えたいという気持ちを持たれる方が多くいらっしゃいます。でも、それだからといって、自分の家族を震災で突然失ってしまった方がその体験を語られるとき、不用意に「それは大変でしたね」とか「辛かったでしょう」等と「共感」してしまうと、逆に心を閉ざされてしまうのです。

「あんたなんかに分かるものか」という感情が沸くからなのだろうと想像します。その苦しみは、体験したものにしか理解できないもの、とも、言えます。

この問題をもう少し突き詰めてみると、こんな話もあります。

以前、質的心理学会で、家族をなくした体験についてのシンポジウムがあって、自分の奥さんを亡くされた体験に向き合う心理学者の方や、息子さんが自殺された体験に向き合う評論家の柳田邦男さん、それから神戸淡路大震災で家族を失った方たちが作る当事者の会に関わりながら研究を続けていらした京大防災研の社会心理学者の矢守克也さんが話をされ、私は指定討論者(コメンテーター)をさせていただきました。

その時に矢守さんに教えてもらったのですが、辛い体験を語り合うことで支え会う場としてのその集まりに参加する皆さんが思っていることは、「この苦しみは決して他人には分からない」ということでした。その他人というのは、似たような体験をしてそこに集まっている人たちも含めてのことだというのです。

決して人にはわかってもらえないと言いながら、人と語り合うために、あるいはその体験を他の人たちに語り継ぐために集まるというのは理屈に会わないと感じるかもしれません。その一見矛盾していると見えるようなことに大事なポイントがあると私は思います。

このような場合、そのひとの主観的な苦しみの体験は、「似たような」体験をしている他の人にさえ共有ができない「その人だけのもの」だということになります。

そういう深い思いを持つ方に、「それは辛かったでしょう」等と共感の言葉をいうことには、しばしばなんの意味もないことを、ボランティアの方たちは直感されるようなのですね。そこではただ言葉を失い、相手の方の語りに、たとえばその方のために足のマッサージ等のケアをしながら、ただ黙って向き合うしかないわけです。

そこにはその人の体験についての、主観的な思いを「私には決して共有できない」と理解しつつ、なおその方に向き合うことではじめて生まれる、とても矛盾したようにも見える支えあいの関係があることになります。語れない世界に沈黙しつつ向き合うことが、却って主観的な体験を共有しきれない二人の間を繋ぐのです。

その時に大事にされていることは「主観的な体験の世界はその人だけのもの」という理解になっています。もう一歩先に進めて言えば、この話は自分の死というものを決して他の人は共有できないということにも繋がります。私の死を他の人は悲しむことはあるかもしれませんが、私の死を死ぬのは私しかありません。私の死それ自体を共有できる人は誰もいないのです。人は皆一人で死ぬしかないというのはその事でしょう。

と、究極的にはそんな風に現れるのが「私の世界」であり、「私の主観の世界」だということになります。

死の意味の問題もそこに絡んでくることからもわかるように、そのような私にとっての主観的な体験の世界は、「私が生きていることの意味」の問題に直接繋がることです。

ちょっと漫画化した言い方になりますが、たとえば自分が生きていることの意味について深刻に悩んでいる人に、「あなたが主観的にどう思っていようとも、客観的な測定によると、その生存価値は測定値86で、平均値50を大きく上回っています」と言われて、その人の悩みは解決するでしょうか?(※)

仮にその「客観的な数値」がその人に意味を持つとすれば、それはあくまでその人がその数値に主観的に意味を感じられている場合だけです。そしてその人がそれに主観的な価値を感じるかどうかは、外から一方的に決められるものではないわけです。

支援が支援する側の自己満足のためではなく、支援される側の人にとっての意味が大事なのだとすれば、そういう側面からの理解の問題を考えずにはいられないことになります。人はその人の意味の世界に生きていて、意味の世界に喜び、また苦しむからです。そして二次障がいに苦しむ多くの発達障がいの方も、その意味の世界で苦しまれることで、そうなられるのだからです。

ただし、私としては、外側からの理解と内側からの理解についてどちらが大事かとか、どっちだけが必要だといったことは考えません。その両方の理解がどちらも不可欠だと思います。いずれも完全ではないからです。

ただ、発達障がいを巡る今の状態を考えたとき、その両者の理解について、バランスの悪さを感じます。つまり、外側からの理解があまりに強調され過ぎていると感じるのです。それは往々にしてそこに生きている人にとっての「私(その人自身)の視点」を置き忘れてしまいます。

「支援の意味」をまともに問うことなく、アセスメントでもその数値の意味を問うことなく、ただ限定されたことしかわからない数値でその人を評価してしまうような、おかしな「客観主義」の傾向が強すぎると感じるのです。

これはとても単純な話ですが、上にのべたように検査の数値は基本的に平均との差で評価されます。ではその数値が高ければその人は幸せになれるのでしょうか?実際今よく使われている検査の内容を見てみればわかることですが、そこに「幸せ検査」等という内容はありません。そういう目的では作られていないのです。

逆に言えば、その数値が低い人は幸せになれない、等ということもあるわけがありません。(その例の一つはこちらに紹介しました

問題は数値がどうかではなく、その人が抱えているしんどさをどうしていくのか、自分に価値を感じられずに苦しむ状況をどうしていくかです。その問題を考えるには、生きることの意味の問題に触れて考えるしかないはずだと私は思います。その側面が素通りされた「支援の方法論」が強すぎると思うのです。

何のための支援なのかをしっかり考えるなかで、その人の主観的な意味の世界に目を向け、どのような支援が必要なのかを一緒に探っていくことの大事さを感じます。研究所が重視している「当事者の視点から考える」という姿勢もまた、そこにつながる問題でもあります。

※ これだけを読めばバカげた笑い話にも見えるかもしれません。けれどもこのようなことは現実に起こっていて、たとえば法の世界でも、大事な家族が事故や犯罪で不幸にも亡くなったときに、損害賠償を請求するといったことが起こりますが、それはその人が「これからも生きていたらどれほどの経済的な価値を生み出した可能性があるか」みたいな「客観的な基準」をひとつの手掛かりとして決定されたりします。それは決して遺族の主観的な痛みの大きさから直接きめることのできない性質のもので、死者の「価格」によって本当に主観的に納得してもらうためではなく、それであきらめてもらうためのものであるわけです。そのため、賠償を得た遺族などがしばしば「金なんて要らない。死んだ○○に戻ってきてほしい」とため息をつくことにもなります。

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