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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2019.11.13

R君の積み木(8)意味の共有の話

 人の心というものを考えるときに、とても大雑把な言い方になりますが、「形」を見る視点と「意味」を見る視点があると思います。

 「形」の方は「構造」とか「形式」とか「パターン」など、その心の持ち主も「主観的」には意識していないことが多いけど、人から見て「客観的に」認められるようなものです。

 たとえば「R君の積み木」の例で言えば、「R君はいつも積み木を一直線に並べることをひたすらやり続けている」とみる見方はその行動の「形」を見ている見方です。

 いろんな心理検査も大部分は「形」を見ようとするもので、いろんな課題をやってもらって、出来たものの数を数え、他の人たちの平均的なでき方と比べて出来方のパターンを調べます。

 これに対して「意味」の方は、そのものごとが「その人自身」にとって主観的にどう感じ取られているか、というところに重点があります。(※)

 R君の積み木の話で言えば、並べた積み木を「電車」に「見立てている」と理解するのは、並べた積み木の「意味」を見ている見方です。

 「意味」の理解はその人の解釈によって成り立っているので、たとえば私はR君がそれを「電車」に見立てていると解釈していますけれど、そう見えたのは単に偶然で、R君は全然違うものに見立てていたかもしれないし、もしかするとそもそも見立てなんてしていない、という可能性も完全には否定できません。そういう意味では主観的な理解(ただし間主観的な理解)を超えることはできません。

 
 ではこの二つの見方の違いが何に結びつくのかを考えてみると、「どう見るか」によって、相手の人との関係が全然変わってきます。

 これもR君の積み木の例で考えると、「形」で考えた場合、R君のやっていることは「わけのわからない(意味のない)こだわり行動」と見えてきます。そうすると「そんなわけのわからないこだわりを減らすことが必要」という考え方が出てきたりして、それをコントロールして矯正するにはどうしたらいいか、といった見方が生まれやすくなります。

 これに対して「意味」で考えた場合、R君のやっていることは、こちらにも理解可能な行為に見えてきます。それこそR君にとってもこちらにとっても「意味のある世界」の出来事になります。そうするとその「意味」の世界をより共有しようとする周囲の働きかけに替わっていきます。

 そのどちらの見方がいいかと言うことを単純には決められず、どういう問題をどのように解決すべき状況なのかによってどちらも必要と言えるのですが、R君の場合には、お母さんが彼の行動の意味が分からなくて苦しい状態だったのが、その意味が見えてくることで、R君とつながる世界が広がったと考えられます。そのことでR君のことを前向きにとらえられるようになられたようでもあります。

 またスタッフの方たちのかかわり方もだいぶ前向きの展開があったようですね。

 TEACCHの研修を受けてこられた客員研究員の下川先生にその体験を教えていただきましたが、やはり自閉の子の特性を大事に、それを活かすやりかたを考えようとしているTEACCHでも、「こだわり」と否定的にみられている行動は逆にその子の強みになるものとして、積極的にとらえるようです。それはその子の、その子にとっての「意味」を尊重する態度から生まれているのだろうと思います。
 
 
 ここでは「当事者の視点」を重視して、当事者との対話の中でこれからの共生の仕組みを考えていこうとしています。それはお互いの「意味」の世界に注目して、それを何かの形でつなぎ、「異なる意味」のあいだで生ずる摩擦を減らして、逆に「多様な意味」の豊かさにつなげていこうとする試みです。

 意味の読み取りは基本的に主観的な解釈の世界の話なので、その人の勝手な思い込みにつっぱしってしまうこともあります。そのことで「相手にとっての意味」に迫ろうとして、結果として逆にこちらの主観的な解釈で相手を振り回してしまう、という危険性も多分にあります。

 その危険をどう減らしていけるか、というと、それはやはり「対話」なのだと思います。お互いの主観の世界、意味の世界を語り合い、そのずれを調整しあう。自分の主観を相手の主観によって「客観化する」という、もうひとつの客観化の仕方によって新たに生み出される「意味の共有」の世界を作っていくことが、これからの療育支援ではとてもだいじなのだろうと思います。

 

※ いろんな議論の仕方がありますが、昔懐かしい話で言うと、精神医学者のヤスパースという人は、人の理解の仕方に「説明」と「了解」の二つを区別して、精神病理について自然科学的に脳の仕組みや生理学的な特徴から理解するしかたを「説明」と呼び、ここで「意味」と言っている精神病者の体験の特徴(幻覚とか妄想など)を理解する仕方を「了解」と呼んでいます。
 文化人類学の中の「贈与論」と呼ばれる分野では、その始祖のモースという学者が、「贈与」が生じる理由について、たとえばマオリ族で「お返し」の義務が派生する理由を、彼らが「ハウ」という一種の「霊」が贈り物にともなうと理解されていることから説明をしましたが、これはその人たちが主観的に感じている「意味」からその行為を理解しようとするもので、これに対して構造主義的な人類学の代表選手であるレヴィ=ストロースはその「主観的」な見方を批判して、当人たちも気づいていない、贈り物の流通の構造こそがその行動を成り立たせている「客観的」な原因なのだと主張しています。
 ここでは「外側からの理解と内側からの理解(1)(2)」で書いた話もその区別につながることになります。
 自然科学的な説明の仕方は基本的に「形」を見ますし、人文科学的な見方は「意味」に足場を置きます。ブルーナーが晩年に認知科学に対してこだわったのもこの「意味」の問題でした。
 世界の理解の仕方は、この「当人にも意識できない客観的な説明」と、「当人の意識する主観的な説明」の間をいつも行ったり来たりしています。

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