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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2020.09.13

棋士の「価値観」とAIの「正解」のずれから「幸せ」を考えてみる

またまた主観と客観についてのこだわりの記事です。何しろそこに「幸せ」の問題が深くかかわると思うので、発達障がいとその支援の意味を考えるうえで、ここを避けては通れないんですね。

 

このブログでよく読んでいただいている記事は、以下のような順になります。

まずトップは「藤井七段と自己肯定」。これは藤井聡太さんが大活躍をされるたびにアクセスが殺到するためにそうなっています。
次は「なぜ自閉系の子が言葉遣いで怒られるのか?」。総数では「藤井七段と自己肯定」には少し及びませんが、日常的にコンスタントに多くの方が読みに来られる点ではかなりぶっちぎり、という感じがあります。
続いて「『奇声』でつながる」「ピアジェのすごいところ」となり、もうひとつ藤井さんの話を含む「『記録』を求めない生き方」を挟んで、その次に「客観的ということの意味:当事者視点を考える」が手堅く伸びてきています。

どの記事も、発達障がいについて一般の解説書に書かれているような話はあまりせずに、少し違った角度からそれぞれのテーマを考える形で書いてきています。その中では「なぜ自閉系の子が言葉遣いで怒られるのか?」というのは内容は別としてまだタイトルとしてはわりにオーソドックスなもので、そこに多くの方が来られるのはわからないでもないのですが、ある意味不思議というか、面白く感じているのは「客観的ということの意味」といった、「それが発達障がいになんの関係があるの?」と思われかねない記事を見に来てくださる方が着実に伸びてきているということです。

私が客観的とか主観的とかいう話にこだわるのは、その人の外側から他人の目で「客観的」に理解する、という方法だけでは、発達障がいという特性を持って「自分なりに生きていく」当事者の主観的な意味の世界が見えにくくなるからです。いくら他人が外から「あなたはこういう風にしたら幸せになれる」と諭したところで、そうして本人が主観的に幸せを感じられなければ、それは幸せではありません。その人が自分の人生に意味を感じ、幸せと思えるかどうかは本人の主観が決めるものだからで、人に言われれて決まるものではない。

もちろん自分自身の見方や感じ方は絶対のものではありませんし、他の可能性も常にありますから、自分を少し引いた地点から別の目で見直してみることは必要です。その意味で「客観的に」外から自分を見つめなおすこともまた大事なのですが、それも最後は自分の主観が幸せを感じられるようになるためです。主観を無視して客観的に自分を決めつけるためではありません。

そういう目から見ると、今の発達障がいの定義によく使われるDSMやICDの「診断基準」には、そういう意味での主観的な観点からの分析は見出しにくい状況にあります。それは定型発達者の平均的な行動の仕方を基準にして、それからのズレ方を外側の目で「客観的」に「測定」するやり方になっています。でもそれだけでその人の幸せを考えられるわけではありません。

ということで、いつものことながらちょっと前置きが長くなりましたが、この主観的な見方と客観的な見方のズレについて、またまた将棋の方の話で面白い記事があったので紹介したくなりました。佐藤天彦九段(元名人)と中村大地七段(元王座)の対談です。

ここで二人が語り合っているのは、ある時点の勝負の優劣状態について、AIによる判断と人間の棋士による判断がズレることについてです。最近はAMEBAテレビでの将棋の実況などでは一手ごとにどちらが優勢かをパーセンテージで表しています。将棋をよくわからない者の目から見れば、優劣が数字で出てくるのでとても分かりやすく面白くもあるのですが、でもプロの棋士から見るとどうも納得しにくいところがあるようです。

AIがどうやって差し手を判断し、優劣を計算するのかについてはごく大雑把なことしか私にはわかりませんが、基本的には「可能なあらゆる指し方」をすべて計算する、というものになります。たとえば第一手目は9枚ある歩のどれかを前に一つ動かすか、あるいは飛車を横6カ所のどこかに動かすか、左右の金をそれぞれ前か斜め前3カ所のどこかに動かすか、同様に王や銀をどこに動かすか、そして香車を前に一つ進めるか、しか動かし方がありませんから、9+6+3×5+2=32通りの指し方になります。そしてそれに対して相手は同じように32通りあるので、その組み合わせで二手目までに32×32=1024通りの指し方がある。これが3手目になると1024通りに対してそれぞれ相当の指し方があるという具合に、どんどん差し手の可能性が増えていって、簡単に何億通りにもなってしまいます。

その中で何かの基準で、どの駒の配置の中でどちらの配置がより優勢かを数値化して比較して表すということなのだろうと思います。ただそういう機械的な決め方だと明らかに無駄な指し方もあるので、そこでそういう無駄な計算を排除して効率よく現実的な指し方の可能性を絞り込むやり方などにソフトによる個性も出るようですが、ここでは話を単純化するために、とにかく今の局面からどういう可能性があるのかを時間とコンピューターの計算能力が許す限りすべて計算しつくすという方法だということにしておきましょう。

そういうやり方で、もはや名人であってもまず勝てないところまでAIの将棋ソフトは強くなってしまいました。ということで、AIソフトの方が機械的にあらゆる可能性を公平に検証したうえで答えを出すという意味で、「客観的で有効な判断」と言えます。

それについて佐藤九段がこんな風に面白く人間の意味の世界とのズレを説明しています。

対局では1日、2日かけてその将棋を考えながら、2人の世界ができ上がっていくんです。そこには対局者同士の中にしか存在しない価値観がある。

 例えば、ある対局でお互いに「9割くらい、これは詰まない」という認識を抱いていたとしましょう。ところが、AIがある一瞬だけは詰む可能性があったと数値で示したとする。それによって「あそこでこうしていれば勝てたじゃないか」と終わった後で批判はできるんですけど、それは2人の世界の理の外にある選択なんです。

将棋もまた対局者同士のコミュニケーションです。「私はこうするけど、あなたどうするの?」「こうしたらあなたはきっとこうしてくるんだろうな。だから私はこうするんだよ」「そろそろ詰みそうだよね。でもきっと逃げ道はあるはずだし、だから私はこうすることにするよ」

そうやって相手の意図を読みながら自分の手を決め、それを見て相手もこちらの意図を読みながら、それに合わせて自分の手を決めてくる。そのやりとりの中で、お互いに「今はこういう流れで進んでいるんだよね」という局面理解の一致も生まれたりする。

それはそのやりとりの中でその都度二人が二人で作り上げる見方で、佐藤さんはそのことを「そこには対局者同士の中にしか存在しない価値観がある。」と表現しています。二人の主観が作り上げた間主観的な(あるいは共同主観的な)世界がそこにあります。

それぞれの主観と言うのは、「すべての可能性をチェックしつくした機械的で公平な<客観的>なもの」ではありえず、自分なりの見方を中心に組み立てた個人的なものです。「すべてを尽くしていない」という意味で偏りを持った主観が、同じように偏りを持った相手の主観と対話しながらお互いに共有された局面理解を作りながら試合が進行することになります。それは主観と主観が織りなす世界で、(主観では気づかないあらゆる可能性を検討したという意味での)客観的な世界とは異なる性格を持ちます。

でも、それこそが人間にとっての将棋だということになりますし、その中で棋士の喜びや悔しさなどの入り混じった世界が展開し、そこに人間的な世界観が生み出されていくわけですし、そこにその人にとっての将棋の「意味」が展開する。

ところがより「客観的」なAIソフトはその世界観から外れた手を「正解(最善手)」として出してきます。人間とは違う理屈がそこにあるわけですね。それでそれまで人間同士の対局の歴史の中でで作り上げてきた将棋の世界観からすると、なんとも居心地の悪い「答え」、あるいは優劣判断をAIソフトが出してくるということになります。そのあたり、佐藤さんがこんな喩えで面白く説明しています

(引用者注:ソフトの判断は)2人が築き上げた世界において、価値観を転覆しろと言われているようなものです。

 私たちの中にも、生きていく中で核になっている価値観がありますよね。例えば堅実に生活してコツコツお金を貯めている人に、人生の一瞬だけを切り取って、今だけがチャンスだから貯金全額を株に投資しろと突然言ってもそれは難しい。

 だけど、人からは「あのときそうやっていれば一生分稼げたとデータが示していますよ」と言われる。でも実際はそんなにいきなり価値観を切り換えるのは無理ですよね(笑)。

今、世の中はビッグデータを使って、人間が気づきにくい出来事の法則性を発見するのが大流行りです。それは人間の主観では気づきにくい、という意味で「客観的」な答えを出してきます。でもそうやって生み出された答えが、人がほかの人とやりとりしながら生きる中で作り上げてきた主観的(間主観的)な「価値観」から見てしっくりと納得できるものとは限りません。

その二つが矛盾してしまったとき、さてどちらの答え、どちらの価値観が大事なのでしょうか?どちらに人が生きることの「幸せ」がかかわってくるのでしょうか。

私が当事者の視点にこだわり続けるのは、その当事者の主観の在り方こそが、当事者の「幸せ」にとって大事なことだと思えるからなのです。

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