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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2019.09.23

親と子の幸せの折り合い方

僕は僕なんだから」で自閉症の青年を育ててこられたお母さんが語られていることから、私は実に多くのことを学ぶ気持ちです。

「僕は僕なんだから」「僕は僕でいいんだよ」と語るお子さんもすごいですが、その言葉を語れるようなお子さんに育てられたお母さん、そしてその言葉を聞いて「覚悟を決め」、「この子の気持ちで生きていこう」と思われたお母さんもすごいと思います。

人はひとりひとりが自分の宇宙をもっています。それはひとりひとりが違う宇宙で、その中でそれぞれの人が生きています。もちろんその宇宙の中にはほかの人もいます。そしてその人はまたその人なりの宇宙を持っています。そうやってお互いの宇宙が重なったりずれたりしながら、私たちは人と生き、そして自分の宇宙を生きています。

人の幸せも、そのひとの宇宙の中での出来事です。その人の宇宙に現れるほかの人やほかの人たちとのかかわりの中で、自分の幸せが決まっていきます。どういう人とより強くかかわり、お互いの宇宙を重ねるかによって、自分の宇宙の在り方も変わってきます。自分の幸せの在り方も変わってきます。

このお母さんはそれまで定型社会に生きる周りの人たちとの間で、自分の宇宙を育ててきました。その中で自分の幸せがありました。そこにお子さんが生まれてきました。ところが自閉傾向を持つそのお子さんは、お母さんがはぐくんできた宇宙の中では生きづらい面がありました。

お母さんはお子さんとの間でお互いの宇宙を重ね、つないでいこうと全力で頑張られました。その頑張りの中で育ったお子さんは、小学三年生の時、「お母さんの宇宙と僕の宇宙はちょっと違う」と自分から語る力をつけていたのです。そしてその言葉にハッと気づいたように、お母さんはお子さんの宇宙に自分の宇宙をもっと重ねていこうと思われたのだと思います。

それまでお母さんが定型社会の中ではぐくんできた自分の宇宙の中での「幸せ」と、その子の宇宙の中での「幸せ」がぴったりとは重ならないことにお母さんが気づかれたのでしょう。そこでお子さんとの間に通じ合える、少し違った「幸せ」を育もうとされるようになったのだと思います。だから「それまで当たり前と思っていたことが、すべて当たり前じゃないことに気づかされ」ることになります。

人が生きるということについて、それを理解するうえで、大きく言うと二つの対極的な見方、考え方があるようです。一つは「私の外に絶対的な世界・宇宙が存在していて、私はその中の一部に過ぎない」という考え方です。もう一つは「すべては私の世界・宇宙の中の出来事だ」という考え方です(※)。

哲学的に言えば、前の方はいわゆる「客観的な考え方」で、あとの方は「主観的な考え方」になります。そしてこの二つの見方、考え方、あるいは感じ方と言ってもいいかもしれませんが、それは哲学の歴史の中でもずっとずっとぶつかり合って、折り合いがつかずに来ています。

でも実はそのどちらとも言えない、もうひとつの見方もあると思います。それは宇宙はそれぞれの人の宇宙が重なり合い、かかわりあって成り立っているものだ、という考え方です。その外側に唯一の客観的な宇宙というものがあるわけでもないし、宇宙には自分しかいないのでもない。ただお互いの宇宙のつながりとして大きな宇宙があります。

そしてひとりひとりの宇宙が周りの人たちの宇宙とつながりあう中で、その人なりの幸せが生まれてくる。でもつながり方が変わると、その人の宇宙の在り方も変わり、幸せの在り方も変わっていく。

発達障がいの方が定型社会の中で苦しいのは、そのつながり方がうまくいかず、自分に合った幸せが見えにくい状態に陥っているのだろうと思います。だとすれば、お互いの宇宙をどうやってうまくつないで折り合っていく工夫をするのか、ということが、結局は発達障がい児・者への支援、ということの中身になるのだと思います。

※ 前者は自然科学などでは普通の考え方になるでしょう。主観の外側に客観を置き、科学とはその客観の在り方に主観を対応させること、という理解になります。それが一致したとき、科学は真理に到達したことになります。後者は現象学に典型的な発想になります。客観的な世界といったところで、それもまた主観の世界に現れるもので、主観の在り方を徹底して明らかにしていかなければ客観もわからないということになります。だから、客観的な世界から主観を解明しようとするような方法はそもそもおかしいので、まずは客観的な世界がどうのこうのという議論は置いておこう(カッコに入れよう:現象学的還元)ということを言います。けれども「方法論的独我論」と言われるこの話をいくらやっても「私の主観」は語れても「他者の主観」の存在にたどり着かない、という困難にぶつかります。浜田寿美男さんが人の発達を考えるときに、メルロポンティの話を引き合いに出しながら、「見つめあう」「触れ合う」など、お互いの主観が絡み合う形で生み出されてくる人間の心理的な世界についてこだわって論じようとするのも、このような議論の文脈が背景にあります。

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